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鹿島神宮 ここには色々な仮説や神話がたくさんあります。 一つは高天原です。実際に神社の境内からおよそ1キロ東にこの地名があります。 そして、その他には鹿島神宮の本源地は現在の鹿島神宮から北に2~3キロくらい行った場所にある、坂戸神社か沼尾神社であるという話や、鹿島神宮跡宮という神社が元々あった神社だという話もあるようです。 ただ、それら全てが仮説であって本当の事を知ることは出来ない状況です。 鹿島神宮のサイトには創建は神武天皇の時とありますが・・。ほんとにこの話はどこに行っても神武天皇なので、神話の世界ですね。 昔の鹿島の地は今とはまるで違う内海と外海に挟まれた細長い半島でした。 海が最も海進してきたのが6千年前と言われていますが、それから徐々に海は引いて行った、とは言うものの2千年前はまだまだ大きな内海が存在し、そこにはたくさんの人々が生活をしていました。 当時の海岸線には貝塚が点在し続けます。地図上に貝塚を置けば当時の海岸線が分かると言われるほどです。 縄文海進がまさに最盛期の頃はきっとこの内海は海水が濃かったと思うのですが、どうやら後に残される風土記などには鯉や鮒の文字も出て来て海水と淡水が混ざった場所も入り江によっては増えて来たようです。 そしてこの香取海の周辺では丸木舟なども多数出土しています。その数は日本全体のおよそ4割にあたるそうです。 内海は外海に比べ波も小さく、人が多く住んでいるとは言え現代と比較したら比べ物にならないくらいの少数です。きっとそれは良好な漁場であり、広大な内海を渡る交易は盛んだったのでは無いでしょうか? 縄文の人々は自然崇拝主義だと言われています。 大いなる恵みと大きな災いを両方に持つものが自然であるとしていた分けで、人もその一部であると考えていたのだと思います。 そして、生と死の不思議も目の当たりにしていたのですよね。少なくとも現代の我々のような生活よりも、生と死、始まりと終わりが目の前に繰り広げられていたのですね。 そうすると、生まれる前と死んだ後の世界は他の世界と考えても不思議では無く、その境や入り口を聖地として崇めたとしても不思議では無いと感じます。 豊漁の海、災いをもたらす海。海からの恵みで生き、海に沈み死ぬ命も見る。ここに神を感じるのは自然な事でしょうね。 だから海と台地の境目にはよく神様を祀っていたのでは無いでしょうか?きっとこの海の周辺にもたくさんの縄文の神様が祀られていたことだと思います。 そんな神様の一つが鹿島神宮の元になった神様なのでは無いかな?と思うのです。それは香取海を挟んだ向かいにある香取神宮もそうだと思います。 想像をしてみれば縄文の時代、陸路を進む手段は徒歩であり、舟は櫂を漕ぐか帆に受ける風で進むしか無く、(帆があったかどうかは微妙ではありますが、帆が無くて、どうやって外洋を進んだのかな?そう思うのですよね。)その距離と時間は今の感覚では無いのですね。そう思うと、今ならば少し離れた所と感じる場所も、それなりに離れた所になり、ある集落から集落へ移動する間の道のりは手つかずの自然の真っ只中、大木の森であったはずです。 想像するだけでも凄い世界ですね。自分の集落を出れば、そこは大木の森、あのナウシカの腐海の森なのです(腐ってないです)。 やはり集落ごとに何らかの神様があるのが自然でしょうね。 なぜ、ここまで想像の翼を広げてしまうかというと、それは今に残す文献が無いからですね。 何故無いのでしょうね? 最も古いと言われる古事記や日本書紀ですら写ししか無いのですよね。 ただ、写しであるならば、その他の文章も写しがあってもおかしく無いと思うのだけれど、今の所は無いのです・・。 二千数百年前、縄文から弥生へ変化していくあの時代は稲作が列島を変えたと言われるわけですが、当然大陸から人々がやってきているわけです。 大陸での発掘ではすでに弥生時代に入る数百年前に漢字の文章が紙に書かれている事が確認されています。 だから遅くとも、大陸から人々がこの列島に来た時には、列島に同時に漢字は存在しているという事になると思うのです。何故なら列島に来た人々が誰一人として文字を知らない文盲だったとは思えないからです。 また想像ではありますが、縄文人には縄文人の言語や意思の疎通方法があっただろうなぁと思うのです。 あれだけの大きな建物を建てる事もできて他の集落との交流もあり、黒曜石などは遥か数百キロ先まで渡って行くような交易が出来て、尚かつ音楽を奏でる事もできて、文字は無い?。 集落にはきっと長老のような人が居たでしょう。その長老から違う集落の長老へ伝聞するのは口伝で・・か?変ですよね。 何やら、鹿島神宮からずいぶんと話は飛んでしまいました。 鹿島神宮や香取神宮について調べていると、それはどうしても香取海の文化を想像せざる得ないのです。 美しかったのだろうなぁと。 できるなら、その時代に行って巨木が林立する原始の森と水平線が見えるような広大な内海、そこに住む動物達と人、真っ暗な夜に美しく光る星達を見てみたいなぁと思うのですよね。。 #
by furusatodiscovery
| 2015-06-20 15:55
| 茨城
小諸といえば懐古園、そして島崎藤村。 この懐古園は小諸城というお城でした。 ここに最初に屋敷を建てたのは木曾義仲の配下の小室太郎光兼という人だそうです。木曾義仲は源氏で頼朝、義経とは従兄弟なのですね。 しかしなぜここに小室太郎光兼は屋敷を建てたのでしょう?やはり川を背負うという形やその切り立つ地形が戦略上良かったのでしょうか? もし戦にそなえての場所だとすると、それは正しい判断だったのでしょうね。 その後の武家戦国時代にも同じ場所でお城が建てられ、難攻不落にすら見える一見変わった穴城となったのですから。 この地は島崎藤村や千曲川、小諸城址に出来た懐古園など何か風情のような印象ですが 小諸の町のすぐ北東には浅間山が存在し、ここに住む人々は何度もその噴火を目撃してきた事だと思います。 そして、そんな火山という、荒々しい自然の麓には旧石器時代の遺跡があったりします。 小諸という町の中には「弁天清水」という名水もあり、ここもまた旧石器時代から人が生活をしていたと言われます。 人は豊かな自然とともに生きて来たのですね。 ところでこの写真にある神社は海野宿にある白鳥神社です。 真田氏の縁の神社で、これまた歴史的にとても古い神社のようです。ただ、創建がいつだったかは定かでは無いようです。 そして「平安時代にこの地に鎮座していたことは、明らかである。」(公式ホームページ)と、なんだかいつものパターンです・・。 そして日本武尊も登場しちゃいます。て言うかこちらの神社の主祭神は日本武尊です。 で、いつものように、その前が知りたいのですよねぇ。 でも、それはまさに想像でロマンでしか無いのです。 ただ、この千曲川沿いにも縄文の痕跡はたくさんあり、少し北側の山に登ると旧石器時代の遺跡も出て来るわけで 隣町の小諸でもその向こうの軽井沢でも同じように古くから人々がそこに暮らし 火山と大きな川と、そこから得られる恵みと災いとを受けながら生きて来たのだけは間違いが無く そうすると、2千年よりも前の生活に思いを巡らせてしまうのです。 きっと千曲川の水量も今とは違うのだろうなぁとか。 森の木々の太さや山の濃さ、生きている動物達、夜の深さ、静けさ、星の数・・。 山間に生きる二千年前の人達の音を聞いてみたいなぁと思ったりします。 #
by furusatodiscovery
| 2015-06-12 21:33
| 長野
軽井沢 この地名を聞けば、すぐに思い出されるのが避暑地です。 軽井沢が避暑地として定着したのはACショーという宣教師が明治19年の夏に軽井沢に訪れた際に、この地をとても気に入って、明治21年には家を建てて一夏を過ごし、これが軽井沢別荘のはじまりで、それからショーは仲間たちに軽井沢を勧め少しずつ別荘が建ち始め、その後碓氷新鉄道(後の信越線の一部)の開通により急速に避暑地として発展していったそうです。 (上と下の写真はショー記念礼拝堂の結婚式の時の写真です) 時代は明治、文明開化の時代です。西洋文明をどんどん取り入れていた時代で、軽井沢にもホテルが建ち、避暑地という文化も華やかに開いたのでしょう。 軽井沢は仕事以外でも良く訪れた土地で、その別荘地は日本では無く西洋のような風景です。それがまた、日本人にはとても憧れるような場所となったのでしょう。 生い立ちが海外の人から始まった避暑地ならば、そんな風景も土地の持つ特性だけでは無く要因として上げられるのだろうな。そう思ったりします。 ところで軽井沢が避暑地になる前はと言うと江戸時代は宿場町だったそうです。 中山道の宿場町であまり畑作などの作物に恵まれなかったと言われるこの地では宿場としての実入りはとても大事なものだったと。 ところが明治になって碓氷新道が開通するとその宿場町にはお客さんが来なくなって決定的な打撃を受けたと・・・そして恵みの神とでも言うのか前述したACショウさんが訪れて線路も敷かれて・・・。 ではでは、江戸時代の前は?というと馬の産地としてあったようです。 馬の産地と言っても牧場のように育てると言った感じでしょうか?馬はモンゴルから古墳時代に輸入されたと言われていて、元々この島に居たわけでは無いと思うので、日本では最初から人に飼われている感じですね。 それとやはり交通の要衝ではあったとも言われています。 古くはまたもや日本武尊の話まで出て来て北陸と関東を繋ぐ道だったと、、、道というのは現代のように山を削ったりデカイトンネルを掘ったりはせずに、地形にあった形で通れる場所を探して、それがいつか自然と道になっていったと思われるので、そう多くは存在しないし、ずっと使われるものだと思うと、やはり碓氷峠は古くから人の足跡のある場所だと言えるような気がします。 そして、その前、となると縄文期に入って行くのですが さすがに目の前に浅間山があるわけで、古代の人達が浅間山の麓で生活する事は無いだろうと思ったりするのですが、実は違うのですね。以外と浅間山麓での生活跡が見付かっています。 僕たちは浅間山は活発な火山活動の山として知っていますが、大規模な噴火や爆発、火砕流などは今でも古代でも毎年のように起こるわけでは無く、数十年、数百年、千年単位の活動で、だからこそ、そこに何かを感じながら生きていたのかも知れませんね。 #
by furusatodiscovery
| 2015-06-04 15:30
| 長野
香取神宮と言えば千葉県内の神社の中では最も古い部類に入り(というか言い伝え通りなら日本でも最古の部類・・)、そして歴史的にも重要な役割を果たした時期があると言われている神社です。 古いというといつ創建なのか?なのですが神武天皇まで言ってしまいます・・。 なので不明というところでしょう。それでも文献に出てくる中でも8世紀の初頭に書かれたと言われる風土記にそれらしき「香取神子之社」として分祠の記載があるようで、古いんです。 ま、奈良時代という事なので、朝廷の力を東国に広めようとはしたものの、まだまだその力はそれほど大きく影響を及ぼしていなかったのでは無いか?と思われます。 香取神宮は実は海の近くに建っていました。 昔の利根川は江戸湾に流れ込んでいました。江戸時代の東遷事業によって流れを変えられ今の利根川となったのですが、その前は現在の犬吠埼の辺りに流れ込んでいる川は鬼怒川などでした。ただ大きな流れというよりも海、香取海や香取浦と言われる内海だったのです。内海は縄文海進から続く海水の流入がまだ引いていない状況で現在とは海抜の高さも違うという事だと思います。その大きさは現在の霞ヶ浦や印旛沼などを含むものでとても広大な内海でした。 水の豊富なこの地域は昔は水上交通による独自の文化圏が存在していたと言われ、縄文時代の丸木舟も多数出土しています。人々が遥か昔から、この地に住み、海の幸、山の幸、川の幸の恩恵を受けていたのだろうと思われるのです。 そして水上交通というのは当時の交易に置いてはとても便利なものであったと思われ、きっと多くの交流もされていたのだろうなと思います。 香取神宮は鹿島神宮とよく組で言われるのですが その一つの要因として香取海を挟んだ神様という事が言えます。香取神宮と同じように鹿島神宮の建つ場所も海の近くだったのですね。 大きな内海を渡るのに危険はつきものだったと思われ、神宮として社が建つ前から民間信仰の神様がその地にあったのでは無いかな? そう思えてなりません。 香取神宮の本殿の裏手には小さなお茶屋さんがあるのですが、そこの屋上に登りますと遠く利根川が臨めます。 ここに立って利根川の方を見ていると数千年前はこの目の前まで広大な入り江があり遥かに続く香取海、そんな景色が見えて来るようで気持だけは一気に縄文時代へタイムトラベルです。 香取神宮は何度となく結婚式の撮影でお伺いさせていただいているのですが さすがに古い神社だけあって、とても緑が豊で、それだけでも何だか有り難い気持にさせてくれます。 最近社殿の屋根などを改修され、とても奇麗な茅葺きの屋根になったのですが この写真はそれ以前の屋根の様子です。 茅葺きの屋根の上に草が生えています。 僕は何となく優しさを感じました。 #
by furusatodiscovery
| 2015-06-03 19:58
| 千葉
根津神社 公式サイトによると千九百年余の昔に日本武尊が千駄木の地に創祀したと書いてあります。 その後太田道灌が社殿を奉建しているとあります。 そして、江戸時代に五代将軍徳川綱吉は世継ぎが定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座したと。 これを今風に言うと2世紀頃に日本武尊が千駄木に初めて神様を祭りましたと そして15世紀頃に太田道灌が社殿を建てました。 太田道灌と言えば江戸城の築城で有名な人ですね。 その後、17世紀の後半に5代目の将軍となった徳川綱吉が社殿を奉建して千駄木から現在の場所に移したという事です。 徳川綱吉というと「生類憐れみの令」が有名です。なんだか悪法と言われているこの「生類憐れみの令」ばかりが目立ちますが、とても学問に対して興味を持っている方のようで、将軍時代の前半は徳を重んずる政治をして、戦国時代の暗い雰囲気を排除したとも言われているようです。 言い伝えと史実が混ざっているとでも言うところなのでしょうか?でも、こういう形が日本の歴史にはとても多いですね。 特に7世紀よりも前になってくると、どこまでが本当の事なのか、あれ?と思う事は往々にしてあるようです。 ところで現在の根津神社が建つ前の旧社地とはどこなのでしょう? 千駄木の団子坂北という事のようなのですが・・・。 何にせよ、団子坂の下である事は無いと思われます。 というのは、今の不忍通りは江戸時代は川だったはずですし、団子坂の北の方で下へ(東側)降りれば畑が多くなるようなので やはり高台に建っていたのでは無いかと思います。 神社が建っている場所は元々神社として建った場所と民間信仰のあった場所が神社になったところと両方あると思います。 旧社地はきっと後者の民間信仰があった場所のような気がするのは気のせいでしょうか? そこは遥か昔は東京湾が入り組む入り江の近くであるわけで、そんな景色に思いを馳せても、今はその周辺は家が密集する住宅地であったりするわけで、今その地に立っても何も感じられる場所では無いのかも知れません。 いや、もしかすると以外といい場所であったりするのかな? #
by furusatodiscovery
| 2015-06-01 14:45
| 東京
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