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沖縄
何度か訪れた事のある場所です。 当然なのですが気候風土が本土とは違うので、その建物の様子は違ってきます。 本土に直撃したらひとたまりも無いであろう大きな台風が毎年のようにやってくる沖縄ですから それに対応した家が建っているのです。 なぜそこまで大きな台風が沖縄にやって来るかと言えば当然南の海の島だからです。 それは海の幸に豊富に恵まれた土地と言えるでしょう。 ![]() 沖縄の歴史を調べると、すぐに出てくるのが琉球王国についてです。 およそ600年程前に琉球王国は誕生したそうです。それ以前は三山時代と呼ばれ、北山、中山、南山の三つに沖縄本島は分かれ、それぞれに王様が居たそうで、その三つの国を統一させた王様が現れて琉球王国となったそうです。 その前となると、調べるのがなかなか難しいのですが、先史時代という区分がされていて やはり三つに別れているようです。それは三山時代とは違って文化圏として区分しているようで 薩南諸島の北部文化圏、沖縄諸島と奄美諸島の中部文化圏、宮古・八重山諸島の南部文化圏となるそうです。 その区分けは土器の種類に依存しているみたいで、北部は本土(九州)の縄文土器に影響を受けていると、中部は北部の影響を受けつつ独自の発展をとげたそうで、そして南部は本土とは関係無く台湾やフィリピンなどの南方諸島の影響が深いということです。 面白いのはこの新石器とか旧石器とか言われる石器時代が沖縄は長いのです。沖縄の遺跡はとても古く3万2千年前の人の骨が見付かっています。そして先ほど書いた三つの文化圏はおよそ千年前まで続きます。なので始まりは本土と変わらぬ時期だと思うのですが、石器や土器そして当然貝を道具として使う時代が本土よりも千年以上長く続いたという事になるわけです。 この先史時代の沖縄の生活とはどんな生活だったのでしょう。 あまり詳しくは語られていないようなので、かなりの推測を交えて書いていくと、それは海の幸と海上交通の生活と言えるのでは無いかと思うのです。 海の幸とそれから内陸における山の幸、そして気候は常夏の島。食料に困る事は無さそうです。 そして海上交通なのですが「貝の道」というのがあったようです。 それは二千年前頃の事で本土では弥生時代と言われている時代の頃です。貝や貝製品が九州や近畿、日本海側、そして北海道までに渡っていたという事なのですね。 これは凄いですね。本土でも旧石器時代の頃に黒曜石を神津島から運んだという話があるようですし、沖縄は海に浮かぶ島ですから、それなりに船の技術は向上すると思うので、そんな海上交通があっても不思議では無いと思うのですが、やはり命がけの航海だったことは間違い無いだろうと思うと凄い事ですよね。それにしても、どんな船で大海原を渡ったのでしょうか?丸木舟というのは無理があると思います。東南アジアでは紀元前3000年頃にはアウトリガー付きカヌーの帆船があったとも言われているので、先ほど書いた沖縄の南部文化圏がフィリピンや南方諸島の影響を受けているという事ですから、この線から伝わって来ているのかな?と思ったりします。 そして、この海上交通はおよそ800年に渡って続けられたという事です、沖縄の人々が運ぶ品々はずいぶんと本土の人々に重用されたという事なのですね。 ![]() このように単なる海の狩猟だけでは無くヤマトや大陸との交易を行っていたとすると、それは僕らが石器時代と聞いた時に思いだすイメージとは違うのでは無いか?と思わざるを得ません。 そして当時はまだ、王様を抱くような民族では無かったとすれば、社会の構成としては本土的に言うと縄文人という感じになるのかな?と思います。 この沖縄の人と縄文人についてなのですが、数年前に発表された研究結果に、DNAとして見ると琉球人とアイヌ人が本土人よりも縄文人により近いのだという事でした。 これは海で遮られている土地柄、この3千年くらいの間の人々の交配が本土のように渡来人と関係する事は多く無かったのでは無いか?という事です。 僕も、その説はとても腑に落ちます。朝鮮半島に最も近いところから渡来人が渡り、それが本土を北上するように渡っていった。九州より南へ行くには、大海原が存在し伝播し辛く、また本州は北に長く、陸奥は暫くの間はエミシの地としてヤマトと敵対する関係でもあった。なのでそれよりも北であり、津軽海峡を挟んだ蝦夷地には渡来人の伝播はやはり琉球と同じようにし辛かったのだろうなと。 それと、縄文時代の人口分布は圧倒的に東日本が多いと言われていて、そうだとすると渡来人にとっては、あまり人の居ない場所にやって来たことになり、これも渡来人の定住と先住民の交流、渡来文化の反映の進み方を早めるのにも都合が良かったとも言えるのでは無いか?と想像します。 文化的に見ても、それまで琉球、本土、蝦夷地とあまり変わらなかった文化が、本土は、特にこの2千年で急激に、それまでの縄文の生活から打って変わって文明的とでも言うのか政治が人々の生活を左右する社会へと変貌しいきます。 それに対して琉球や蝦夷地は渡来人の流入が少なかったために縄文の文化を残しながらゆっくりとした時代が流れため、石器時代と言われるような文化が長く残ったのでは無いかなと思います。 物理的な自然の隔たりが民族の社会を隔てていた。言い換えれば自然と人間が近しい存在だった時代と言えるのでしょうね。 ![]() しかし、そんなゆっくりとした時代の流れを生きていた島々にも政治的な社会が関わるようになってきます。 それは、お隣の大陸で大勢力となった明の台頭です。 沖縄も15世紀の頃には琉球王国へと形は変えて東アジアの大勢力である明の冊封体制に加わっています。それは明に対して貢ぎ物を出す「朝貢」をして、ひとつの王国であると認めてもらうという事であるのです。 ただし、貢ぎ物をしていたと言っても、どうやらそれは、単なる配下に入るという事では無く、琉球王国はヤマトや東南アジアの貿易の中継基地として明に関わったようで、ヤマトや東南アジアの品々を明に渡し、そして明から多くの商品を仕入れて、それをまた日本や東南アジアに売りさばくという体制を作ったのです。 冊封体制という明中心の国際秩序、盟主と臣下の関係を築いたもののみに与えられる交易権を利用した形とも言えるのですね。 その頃の琉球王国は「琉球王国の黄金時代」とも言われるらしく、とてもうまく行ってたいのでしょう。 ま、上手い事やったと言う感じでしょうか?(笑 その後、九州の薩摩藩が豊臣秀吉の東アジア征服の野望に加担するようにと要求をしてきたのですね。 ただ琉球の民族は戦争の経験が無いので、変わりに兵糧米を出せと言われたわけです。それも相当の量の。(7,000人・10カ月分) その頃ちょうど明にも貢ぎ物を出さねばならぬ時期だったようで、仕方無く半分の兵役を受けたという事です。 その後、秀吉が死に江戸幕府の時代に入ると大陸との関係を修復したい徳川家康は琉球を使う事を考えました。 しかし琉球としては明との関係を大事にして、それに応じませんでした。 すると薩摩藩の島津氏がこれ幸いと琉球王国を武力によって制圧したのです。これ幸いというのはちょうど薩摩藩はお金に困っていたのです。 それからは良いように薩摩藩は琉球を使う事になります。 琉球の人々は薩摩藩からの圧政の中で疲弊しいったのですが、それでも日本本土からの文化などを吸収しつつ独自の文化を作るようになりました。それが現代に伝わる琉球文化となっています。 ここで、僕が気にかかったのは「琉球の民族は戦争の経験が無いので」というところです。 三山時代という戦いの歴史があったようにも思うのですが、他国から見たら戦闘の経験の無い国なのですね。 それと、薩摩藩の島津氏が江戸幕府になってから琉球に攻めて来た時も3000人で攻めたらしいのですが、わずか10日で首里城を明け渡したそうです。その理由は「戦闘の経験もあまり無く、大した武器も持っていない」だそうです。 やはり、これは色々と考えさせられます。すでに江戸幕府を擁する日本では無く、その前のヤマト王権の時代の日本まで遡ると何やら複雑な想像をしてしまいます。 ![]() その後、江戸時代も末期になると以前にも増して西洋からの来訪者が訪れるようになります。黒船の来航です。 ペリーは沖縄に立ち寄った際に色々と調べているようです。それは地理的に見た沖縄の重要度を感じているからです。 もし幕府が開国をしないならば沖縄だけでも取ってしまおうと思っていたようです。 その後、明治になり明治四年の廃藩置県によって所謂「琉球処分」が始まるのです。 これまた沖縄の人々にとっては酷い政治が始まります。 そうこうしているうちに日本は戦争に明け暮れる時代へと突入、とうとう日米開戦まで起こしてしまい、沖縄はまさに戦場と化し、今度は米国による支配が始まりました。日本は大東亜戦争において敗戦を喫し、連合国(米軍)の支配下に置かれますが、1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の締結によって独立という形になります。しかしながら沖縄だけは米軍支配のまま、となったのです。 振り返ってみれば、ペリーがやって来た頃の米国の戦略が数十年経過して成就したと言えるのかも知れません。 その後、米国は沖縄に大きな基地をたくさん作りました。米国は20年もの間、沖縄を基地の島として扱っていきました。 その間、沖縄県民はたくさんの祖国復帰運動を繰り広げていきました。 その沖縄県民の思いは「核も無い基地も無い平和な島」としての返還でした。 しかしながら当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で交わされた「沖縄返還協定」は沖縄県民の意志を反映せずに進み、1972年(昭和47年)に沖縄は日本に返還されました。 その後も沖縄は日米安全保障条約地位協定に乗っ取った米軍基地がそのままに残り、今では誰でも知っている新しい巨大基地、辺野古が作られようとしています。 辺野古はもちろん沖縄県民の民意では移設反対、全米軍基地の撤退なのですが、相変わらず両政府ともに聞く耳を持っているとは言えないようです。 こうして辺野古の問題を今僕たちは目の当たりにしているのですが 歴史とは過去だけでは無く今も歴史だと感じざる得ません。それは過去という綿々と続いている時間が今に繋がっているということです。 沖縄では現在「琉球独立」が真面目に語られるようになったと言われます。 歴史を見れば、ヤマトとの関わりで沖縄が良かった事などあったのか?と思ってしまえば、独立したいという思いは仕方が無いとも思えてしまいます。 ただ、僕としては政治的な意味は全く無く沖縄が独立すると遠くなるような気がして、なんとなく寂しいなという思いがあります。 でも、その寂しさとは虚しい「国」としてのあり方の問題なのだなぁと思うと、根本的な部分で何かが変わらないといけないと感じます。
by furusatodiscovery
| 2015-09-10 22:44
| 沖縄
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