縁のある地で挙げた結婚式の写真とその地の歴史を見ながら記事を書いてみたいと思っています。勝手な歴史考察を含めてなので間違いがあるかも知れないので、まるのまま信じないでね。本サイトはプロフィールページにリンクがあります。
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江ノ島は陸から離れたから良かったのでは無いかと・・。
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江ノ島
江ノ島と言えば今やマリンレジャーで有名な場所ですね。
湘南海岸の海岸線には若者文化とでも言うのか、たくさんのお洒落な店が立ち並び、海を背にして見ると、そこが海岸だとは思えない程の賑わいを見せています。
僕の知る限りではサザンオールスターズが出て来て以来この地が人気のスポットになったように思います。
その少し前から日本でもサーフィンをする若者が現れてきましたが、それでも、まだそれほどの賑わいとは言えなかったと思います。
それよりも少し前は静かな海辺の町で、干物の匂いがあるようなそんな風情だったように記憶しています。

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そんな江ノ島は歴史としては湘南海岸より遥かに古いですね。
というのは湘南海岸は縄文海進の時は海の底だったのです。
藤沢から鎌倉に向かうと山があります。その山がちょうど海岸線になるように海は来ていました。
なので今の海岸線に近い地形は鎌倉側と三浦半島という感じでしょうか?なので今の藤沢、茅ヶ崎、平塚、小田原の低地はほぼ海ですね藤沢や茅ヶ崎、平塚辺りなどだとけっこう海が現在の陸地深くに入って来ています。

でも、江ノ島は海の底に沈むような低さでは無かったのです、それどころか人の暮らしすらあったのですね。
というのは近年になって縄文の住居跡が見付かったのです。時代はおよそ9千年前の縄文早期のものだそうです。
鎌倉から半島のように突き出た突端の先の島に家を作って住んでいたわけです。
ただ、もしかすると縄文海進は6千年前がピークと言われているので、人が住んでいた9千年前は島では無かったのかも知れませんね。
半島から離れて行くようになってその場所には住まなくなったのかも?と思ったりします。
それにしても9千年前の、今とはまるで違う景色であろう相模湾にポツリと突き出た場所で住むっていうのは、どんな感じだったのでしょう?
周囲を海に囲まれた小さな島で生きているというのは不思議な感じでしょうね。
なんでそこを選んだのでしょう?魚でしょうか?それにしても小さいですよね。江ノ島。きっと神様を祀ったりしていたのでしょうね。

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江ノ島は歴史という点ではとても、たくさんの事が起こっています。
江ノ島にある江島神社は6世紀に地震が10日間も続いて天女が十五童子を従えて現れ、江ノ島を創ったと・・。それでその時の天皇(欽明天皇)の命令で洞窟に神様を祀ったのが江島神社の始まりという事になっているそうです。です。
で、その後も高名なお坊さん達がたくさんやって来て、その洞窟で修行をなさったそうです。その中には弘法大師や慈覚大師も入っています。言い伝えです・・。

で、時はずっと飛んで源頼朝がここで祈願をしたり鳥居を奉納したりします。この辺りからは史実です。
頼朝と言えば奥さんは北条政子なので北条の人達もたくさん来ます。
17世紀に入ると徳川もです。家康にはじまり光圀もきます。綱吉は中津宮を権現造りに社伝を再建しています。
やっぱり海に突き出ている島という事なのでしょうか?
凄いものですね。
江戸時代は天下泰平の時代でもあって、弁財天信仰が流行して江戸町民達も手軽な観光地としてたくさん来たようですね。
この当時から観光地としての何かを持っていたのでしょうか?

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ただ、明治になると外国の人がやってきて海洋生物の研究所を作ったり、江ノ島の頂上部を買い取って別荘を建てたり、なぜか学校を作って分校にしたり、北岸を埋め立てたり、桟橋を作ったり、それまでとは違う形になっていったようです。

そして、戦後昭和がやってくると、観光地として、どんどん進んで行きます。
一時期は静かな観光地ではあったような気がしますが、今では若者が定住し、とても賑やかな場所となったという事です・・。
なんか凄いですね。

近来そんな過激な変貌を遂げた場所ではありますが
何となく、感じるのは、やはり海に突き出た不思議な島は、何だか見ていて面白いのですよね。
近くに行って見ていると、あそこ行ってみようよって気にさせる、不思議があるような気がします。








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by furusatodiscovery | 2015-06-21 17:49 | 神奈川
2千年以上前のこの地に立ってみたい。鹿島神宮。
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鹿島神宮
ここには色々な仮説や神話がたくさんあります。
一つは高天原です。実際に神社の境内からおよそ1キロ東にこの地名があります。
そして、その他には鹿島神宮の本源地は現在の鹿島神宮から北に2~3キロくらい行った場所にある、坂戸神社か沼尾神社であるという話や、鹿島神宮跡宮という神社が元々あった神社だという話もあるようです。
ただ、それら全てが仮説であって本当の事を知ることは出来ない状況です。
鹿島神宮のサイトには創建は神武天皇の時とありますが・・。ほんとにこの話はどこに行っても神武天皇なので、神話の世界ですね。

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昔の鹿島の地は今とはまるで違う内海と外海に挟まれた細長い半島でした。
海が最も海進してきたのが6千年前と言われていますが、それから徐々に海は引いて行った、とは言うものの2千年前はまだまだ大きな内海が存在し、そこにはたくさんの人々が生活をしていました。
当時の海岸線には貝塚が点在し続けます。地図上に貝塚を置けば当時の海岸線が分かると言われるほどです。
縄文海進がまさに最盛期の頃はきっとこの内海は海水が濃かったと思うのですが、どうやら後に残される風土記などには鯉や鮒の文字も出て来て海水と淡水が混ざった場所も入り江によっては増えて来たようです。
そしてこの香取海の周辺では丸木舟なども多数出土しています。その数は日本全体のおよそ4割にあたるそうです。
内海は外海に比べ波も小さく、人が多く住んでいるとは言え現代と比較したら比べ物にならないくらいの少数です。きっとそれは良好な漁場であり、広大な内海を渡る交易は盛んだったのでは無いでしょうか?

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縄文の人々は自然崇拝主義だと言われています。
大いなる恵みと大きな災いを両方に持つものが自然であるとしていた分けで、人もその一部であると考えていたのだと思います。
そして、生と死の不思議も目の当たりにしていたのですよね。少なくとも現代の我々のような生活よりも、生と死、始まりと終わりが目の前に繰り広げられていたのですね。
そうすると、生まれる前と死んだ後の世界は他の世界と考えても不思議では無く、その境や入り口を聖地として崇めたとしても不思議では無いと感じます。
豊漁の海、災いをもたらす海。海からの恵みで生き、海に沈み死ぬ命も見る。ここに神を感じるのは自然な事でしょうね。
だから海と台地の境目にはよく神様を祀っていたのでは無いでしょうか?きっとこの海の周辺にもたくさんの縄文の神様が祀られていたことだと思います。
そんな神様の一つが鹿島神宮の元になった神様なのでは無いかな?と思うのです。それは香取海を挟んだ向かいにある香取神宮もそうだと思います。

想像をしてみれば縄文の時代、陸路を進む手段は徒歩であり、舟は櫂を漕ぐか帆に受ける風で進むしか無く、(帆があったかどうかは微妙ではありますが、帆が無くて、どうやって外洋を進んだのかな?そう思うのですよね。)その距離と時間は今の感覚では無いのですね。そう思うと、今ならば少し離れた所と感じる場所も、それなりに離れた所になり、ある集落から集落へ移動する間の道のりは手つかずの自然の真っ只中、大木の森であったはずです。
想像するだけでも凄い世界ですね。自分の集落を出れば、そこは大木の森、あのナウシカの腐海の森なのです(腐ってないです)。
やはり集落ごとに何らかの神様があるのが自然でしょうね。

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なぜ、ここまで想像の翼を広げてしまうかというと、それは今に残す文献が無いからですね。
何故無いのでしょうね?
最も古いと言われる古事記や日本書紀ですら写ししか無いのですよね。
ただ、写しであるならば、その他の文章も写しがあってもおかしく無いと思うのだけれど、今の所は無いのです・・。

二千数百年前、縄文から弥生へ変化していくあの時代は稲作が列島を変えたと言われるわけですが、当然大陸から人々がやってきているわけです。
大陸での発掘ではすでに弥生時代に入る数百年前に漢字の文章が紙に書かれている事が確認されています。
だから遅くとも、大陸から人々がこの列島に来た時には、列島に同時に漢字は存在しているという事になると思うのです。何故なら列島に来た人々が誰一人として文字を知らない文盲だったとは思えないからです。

また想像ではありますが、縄文人には縄文人の言語や意思の疎通方法があっただろうなぁと思うのです。
あれだけの大きな建物を建てる事もできて他の集落との交流もあり、黒曜石などは遥か数百キロ先まで渡って行くような交易が出来て、尚かつ音楽を奏でる事もできて、文字は無い?。
集落にはきっと長老のような人が居たでしょう。その長老から違う集落の長老へ伝聞するのは口伝で・・か?変ですよね。

何やら、鹿島神宮からずいぶんと話は飛んでしまいました。
鹿島神宮や香取神宮について調べていると、それはどうしても香取海の文化を想像せざる得ないのです。
美しかったのだろうなぁと。
できるなら、その時代に行って巨木が林立する原始の森と水平線が見えるような広大な内海、そこに住む動物達と人、真っ暗な夜に美しく光る星達を見てみたいなぁと思うのですよね。。










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by furusatodiscovery | 2015-06-20 15:55 | 茨城
小諸の山間で見てみたい、遠い歴史。
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小諸といえば懐古園、そして島崎藤村。
この懐古園は小諸城というお城でした。

ここに最初に屋敷を建てたのは木曾義仲の配下の小室太郎光兼という人だそうです。木曾義仲は源氏で頼朝、義経とは従兄弟なのですね。
しかしなぜここに小室太郎光兼は屋敷を建てたのでしょう?やはり川を背負うという形やその切り立つ地形が戦略上良かったのでしょうか?
もし戦にそなえての場所だとすると、それは正しい判断だったのでしょうね。
その後の武家戦国時代にも同じ場所でお城が建てられ、難攻不落にすら見える一見変わった穴城となったのですから。


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この地は島崎藤村や千曲川、小諸城址に出来た懐古園など何か風情のような印象ですが
小諸の町のすぐ北東には浅間山が存在し、ここに住む人々は何度もその噴火を目撃してきた事だと思います。
そして、そんな火山という、荒々しい自然の麓には旧石器時代の遺跡があったりします。
小諸という町の中には「弁天清水」という名水もあり、ここもまた旧石器時代から人が生活をしていたと言われます。
人は豊かな自然とともに生きて来たのですね。


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ところでこの写真にある神社は海野宿にある白鳥神社です。
真田氏の縁の神社で、これまた歴史的にとても古い神社のようです。ただ、創建がいつだったかは定かでは無いようです。
そして「平安時代にこの地に鎮座していたことは、明らかである。」(公式ホームページ)と、なんだかいつものパターンです・・。
そして日本武尊も登場しちゃいます。て言うかこちらの神社の主祭神は日本武尊です。
で、いつものように、その前が知りたいのですよねぇ。
でも、それはまさに想像でロマンでしか無いのです。
ただ、この千曲川沿いにも縄文の痕跡はたくさんあり、少し北側の山に登ると旧石器時代の遺跡も出て来るわけで
隣町の小諸でもその向こうの軽井沢でも同じように古くから人々がそこに暮らし
火山と大きな川と、そこから得られる恵みと災いとを受けながら生きて来たのだけは間違いが無く
そうすると、2千年よりも前の生活に思いを巡らせてしまうのです。
きっと千曲川の水量も今とは違うのだろうなぁとか。
森の木々の太さや山の濃さ、生きている動物達、夜の深さ、静けさ、星の数・・。

山間に生きる二千年前の人達の音を聞いてみたいなぁと思ったりします。








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by furusatodiscovery | 2015-06-12 21:33 | 長野
軽井沢、縄文の生活、交通の要衝、宿場町、避暑地という変遷。
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軽井沢
この地名を聞けば、すぐに思い出されるのが避暑地です。
軽井沢が避暑地として定着したのはACショーという宣教師が明治19年の夏に軽井沢に訪れた際に、この地をとても気に入って、明治21年には家を建てて一夏を過ごし、これが軽井沢別荘のはじまりで、それからショーは仲間たちに軽井沢を勧め少しずつ別荘が建ち始め、その後碓氷新鉄道(後の信越線の一部)の開通により急速に避暑地として発展していったそうです。
(上と下の写真はショー記念礼拝堂の結婚式の時の写真です)


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時代は明治、文明開化の時代です。西洋文明をどんどん取り入れていた時代で、軽井沢にもホテルが建ち、避暑地という文化も華やかに開いたのでしょう。
軽井沢は仕事以外でも良く訪れた土地で、その別荘地は日本では無く西洋のような風景です。それがまた、日本人にはとても憧れるような場所となったのでしょう。
生い立ちが海外の人から始まった避暑地ならば、そんな風景も土地の持つ特性だけでは無く要因として上げられるのだろうな。そう思ったりします。


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ところで軽井沢が避暑地になる前はと言うと江戸時代は宿場町だったそうです。
中山道の宿場町であまり畑作などの作物に恵まれなかったと言われるこの地では宿場としての実入りはとても大事なものだったと。
ところが明治になって碓氷新道が開通するとその宿場町にはお客さんが来なくなって決定的な打撃を受けたと・・・そして恵みの神とでも言うのか前述したACショウさんが訪れて線路も敷かれて・・・。


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ではでは、江戸時代の前は?というと馬の産地としてあったようです。
馬の産地と言っても牧場のように育てると言った感じでしょうか?馬はモンゴルから古墳時代に輸入されたと言われていて、元々この島に居たわけでは無いと思うので、日本では最初から人に飼われている感じですね。
それとやはり交通の要衝ではあったとも言われています。
古くはまたもや日本武尊の話まで出て来て北陸と関東を繋ぐ道だったと、、、道というのは現代のように山を削ったりデカイトンネルを掘ったりはせずに、地形にあった形で通れる場所を探して、それがいつか自然と道になっていったと思われるので、そう多くは存在しないし、ずっと使われるものだと思うと、やはり碓氷峠は古くから人の足跡のある場所だと言えるような気がします。


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そして、その前、となると縄文期に入って行くのですが
さすがに目の前に浅間山があるわけで、古代の人達が浅間山の麓で生活する事は無いだろうと思ったりするのですが、実は違うのですね。以外と浅間山麓での生活跡が見付かっています。
僕たちは浅間山は活発な火山活動の山として知っていますが、大規模な噴火や爆発、火砕流などは今でも古代でも毎年のように起こるわけでは無く、数十年、数百年、千年単位の活動で、だからこそ、そこに何かを感じながら生きていたのかも知れませんね。








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by furusatodiscovery | 2015-06-04 15:30 | 長野
香取神宮は香取海が目の前にあったであろう件。
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香取神宮と言えば千葉県内の神社の中では最も古い部類に入り(というか言い伝え通りなら日本でも最古の部類・・)、そして歴史的にも重要な役割を果たした時期があると言われている神社です。
古いというといつ創建なのか?なのですが神武天皇まで言ってしまいます・・。
なので不明というところでしょう。それでも文献に出てくる中でも8世紀の初頭に書かれたと言われる風土記にそれらしき「香取神子之社」として分祠の記載があるようで、古いんです。
ま、奈良時代という事なので、朝廷の力を東国に広めようとはしたものの、まだまだその力はそれほど大きく影響を及ぼしていなかったのでは無いか?と思われます。


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香取神宮は実は海の近くに建っていました。
昔の利根川は江戸湾に流れ込んでいました。江戸時代の東遷事業によって流れを変えられ今の利根川となったのですが、その前は現在の犬吠埼の辺りに流れ込んでいる川は鬼怒川などでした。ただ大きな流れというよりも海、香取海や香取浦と言われる内海だったのです。内海は縄文海進から続く海水の流入がまだ引いていない状況で現在とは海抜の高さも違うという事だと思います。その大きさは現在の霞ヶ浦や印旛沼などを含むものでとても広大な内海でした。
水の豊富なこの地域は昔は水上交通による独自の文化圏が存在していたと言われ、縄文時代の丸木舟も多数出土しています。人々が遥か昔から、この地に住み、海の幸、山の幸、川の幸の恩恵を受けていたのだろうと思われるのです。
そして水上交通というのは当時の交易に置いてはとても便利なものであったと思われ、きっと多くの交流もされていたのだろうなと思います。

香取神宮は鹿島神宮とよく組で言われるのですが
その一つの要因として香取海を挟んだ神様という事が言えます。香取神宮と同じように鹿島神宮の建つ場所も海の近くだったのですね。
大きな内海を渡るのに危険はつきものだったと思われ、神宮として社が建つ前から民間信仰の神様がその地にあったのでは無いかな?
そう思えてなりません。

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香取神宮の本殿の裏手には小さなお茶屋さんがあるのですが、そこの屋上に登りますと遠く利根川が臨めます。
ここに立って利根川の方を見ていると数千年前はこの目の前まで広大な入り江があり遥かに続く香取海、そんな景色が見えて来るようで気持だけは一気に縄文時代へタイムトラベルです。


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香取神宮は何度となく結婚式の撮影でお伺いさせていただいているのですが
さすがに古い神社だけあって、とても緑が豊で、それだけでも何だか有り難い気持にさせてくれます。
最近社殿の屋根などを改修され、とても奇麗な茅葺きの屋根になったのですが
この写真はそれ以前の屋根の様子です。
茅葺きの屋根の上に草が生えています。
僕は何となく優しさを感じました。








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by furusatodiscovery | 2015-06-03 19:58 | 千葉
伊豆高原の結婚式、その地はとても豊かな地であると。
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伊豆半島は遥か昔、およそ3000万年前に1000km以上も南でその土台が作られフィリピン海プレートに乗って年間数センチの速度で進み、200万年〜100万年程前に日本列島と合体を始めた地域だという。
もちろん今の伊豆半島の形で動いて来るわけでは無いのですよね。
海底火山や島の火山が噴火を続け吹き出した噴出物で形を変え今の場所に衝突し半島になったそうな。
海に浮かぶ火山群が本州と繋がって半島になったのだから100万年前〜50万年前はさぞかし活発な景色が見えたのでしょうね。

ただ、日本列島に人の痕跡を見つけられる現在の調査では最古が9万年前とされていますし、世界的に見ても100万年前は原人の状態なので、人類と言える形ではまだ無いですね。

10万年前の伊豆や箱根は山が出来たり湖ができたりと活発ですね。
この頃になると、そろそろ列島に住む人達が現れて来るので、当時の人達は凄いモノを見ていた事になります。


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伊豆半島では少し調べる限りでは3万年程前の遺跡が発見されていて道具を使う人達が現れているという事です。火山という事もあり黒曜石が取れるのできっと刃物などを作ったりは容易だったかも知れません。
ここで黒曜石なのですが、これが産地だけで使われたのでは無いようなのですね。
箱根でも伊豆半島でも取れた黒曜石なのですが、なんと神津島の黒曜石が能登半島で見付かったりするのです。(日本列島どころか大陸でも見付かっている?)
凄いですね、3万年近く前にどうやって神津島から黒曜石を運んだのでしょう?
ともかく黒曜石は当時の人達にとっては大切な石だったのです。
そして黒曜石は多くの人達を繋いで行ったとも言えるのかも知れません。というか・・・3万年も前にすでに人々の交流があるという事実が、やはり単なる大昔の原始人のような認識とは違うのだなと感じます。


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ところで、最近でも大湧谷の事などもあり、やはり動く場所なのだな。と思ったりするのですが、それと同時に自然の恵みを得られる場所なのだと言えると思うのですね。
非常にたくさんの温泉が出る場所が箱根、伊豆で僕も何度もお邪魔させてもらいました。いい湯です。
自然とは敬意と畏怖を持って相対するものだなと、動く列島、自然の恵みが豊富な列島の住民として思うのです。
まぁハイリスクハイリターンでは無いですけれど、そんな場所に住んでいるのです。
そしてハイリスクだけをローリスクにしようとするのはローリターンどころか、ノーリターンにするのだという事もそろそろ学ばねばなりませんね。








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by furusatodiscovery | 2015-05-28 17:41 | 静岡
氷川神社の力?
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埼玉県大宮市の氷川神社
なかなかの由緒のある神社です。
公式サイトによれば今から2千有余年前に第五代孝昭天皇の御創立とか。
現在の主催神は、須佐之男命と稲田姫命と大己貴命という事です。
そしてこの神様達は出雲大社と縁のある神様達という事になるでしょうか。
出雲と大和の系列は中々興味深いなと思ったりします。

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ところで、この地を例のごとく縄文海進の時代に当てはめてみると
またもや水の近くにあるのですね。
関東平野に入り込むようにあった海が入り組んだ入り江として大宮台地を囲んでいました。
現在の大宮駅はその半島とも言える土地の真ん中にあって現在ある氷川神社も同じような場所にあります。
また、氷川神社は水の神様だったという説もあるようで、江戸中期まで存在していた見沼という広大な沼の畔にあり、見沼の水神を祀っていたと。
何にせよ、今では想像もできないような台地と水の関係は古にはあったのでは無いかな?なんて思ったりします。
ちなみにウィキペディアには「アラハバキ」が祀られていたという事が書いてあります。「アラハバキ」は民間信仰としてあったもののようです。
そんな説も大昔の日本が分かれば色々と見えてくるのでしょうけれど、今はロマンの一つという事でしょうか。

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それにしても、大宮氷川神社はとても力がある神社なのでしょうか?
その時代の武将達はこの大宮氷川神社を参拝しているようです。
古くは日本武尊の東夷鎮定の祈願に始まり
出雲族の武蔵国造、源頼朝の社殿再建
聖武天皇が武蔵一宮と定め
その他にも平貞盛、徳川家康と蒼々たる面々が名を連ねます。
明治以降も天皇の御親拝などは続いているようですね。
面白いのは東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている事です。
昔からそうなんだでは無く、その大きな事業というものが、どの時代にもあって、そこに関わる神事のようなものが存在するという事
昔とか今とかの区切りを無くして見せる一つの方法だと思ったりします。








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by furusatodiscovery | 2015-04-26 20:40 | 埼玉
諏訪の地は、山がいい。
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諏訪大社
『その期限については知る術もありません。』と公式サイトに書いてあります。
きっと公式な文献が無いのでしょう。
そりゃ無いですよね。
諏訪大社で有名な御柱祭の起源が何であるのかも「説」として色々あるわけですしね。
ただ、文献上に出て来るだけでも旧いのですよね。昔からある神社なのです。

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この神社に何度か結婚式の撮影で伺いました。
不思議とご縁のある土地であったりするようです。
ほとんどの新郎もしくは新婦が、この土地のご出身の方で、その方々はやはり諏訪大社で結婚式はしたいというご要望でした。

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そんな中でこの地とは出生の縁がある分けでは無いのだけれど、まだ恋人同士の頃に遊びに来た諏訪大社をご覧になって「ここで結婚式をしたい」と思った方がいらっしゃいました。
なぜ、そう思ったのかを尋ねると「山が良いのです。」と答えられました。
実は僕も諏訪大社は山が良いと思っていました。
現在ある諏訪大社上社本宮の山は曇りの日が良いです。天気が良いと手入れされた山が透けてくるのです。
それよりも太陽の光が強く刺さない曇りの方が山を感じられる。山の濃さとでも言うのでしょうか。そんな気がしました。
そのお客さんを撮影するようになってから諏訪大社上社では山を意識して写真を撮るようになりました。

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その後自分でも諏訪大社を少し調べるようになって諏訪大社上社前宮に行きたいと思うようになりました。
そこは今の上社よりも山の上の方にあります。公式サイトでは『古くは神殿に付属したお社でした。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御神際が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。』とあります。
ここから始まったとされているようです。
もう少し調べると神体山が守屋山というのが出て来たりします。ここを探り続けるとパワースポットとかいう今風の言葉が多く出て来るので僕はパスです。(苦笑
ただ、山を神様として崇めるというのは良くある話です。
山や川、木、岩、海・・・多くの自然を神とする八百万の神の思想はとても日本人らしいと感じます。今でも普通に色々なモノに話しかけますからね僕たちは。。車くん頑張って走ってねみたいな。(ちょっと違う?)
そんな事を色々と見ているうちに小袋石という凄い石のある事を見つけました。
どうやら、この石の突端に舟を繋げたという事であったりする話もあるらしく、もし本当だとすれば昔々はこのあたりまで諏訪湖があったという事になるのですよね。
それは現在の諏訪の街は湖の底で、大きいと思っている諏訪湖も実は今ではずいぶん小さくなったという事なのですよね。
あ〜〜凄い景色を想像してしまいます。
そして、この小袋石と磯並社は今でもちゃんと祭られているし、たとえ祭られていなくても、そんなことは関係無く、荘厳な雰囲気を漂わせているのです。
諏訪を含めた八ヶ岳周辺は縄文遺跡が数多く発見されている場所で当時と今とでは湖や川の形は変化していると思うのですが
その山などの大まかな形はそのままであろうと思うと、その当時の人々が夜と昼との明かりの中で自然の音と色に囲まれながら
どんな暮らしをしながら何の会話をしていたのだろう?そんな想像をしてしまいます。








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by furusatodiscovery | 2015-04-14 00:25 | 長野
鞆の浦。旅先で感じた事。
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鞆の浦。
この地は歴史が非常に多く語られていて、現)沼名前神社が合祀以前の渡守神社の創建は仲哀天皇の時代の神功皇后が西国に向かう際に立ち寄ったと際に社が無い事を知って、斎場を設け、海路の安全を祈願したのが始まりと言われていまして
このあたりの時代(仲哀天皇)の事はかなり神話めいて居る事も多いので何とも言えないのではありますが、後には万葉集の歌にも登場してきたり(700年代)、「室町幕府」の始まりは足利尊氏が天皇から院宣を受け取った事からで、その地が鞆の浦で15代将軍足利義昭が滅ぶのもこの地と「足利は鞆に興り、鞆に滅ぶ」と言った具合で、まぁ歴史に事欠かないようです。

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僕としては歴史はアマテラスからとは思わないので、その前はどうなのだろう?と探すのですが、弥生時代にはすでに集落があったようだとは伝えられるものの、その後の歴史が華やかだからか、あまりそちらの情報は無いようです。
ちなみに縄文の土器なども出土はしているのですよね。
何となく古地図なんかも探してみたり、縄文海進などの時代はどうなのかな?と思ったり少し見てみたのですが切り立った土地柄らしく、大きく地形は変化しないようです。もちろん今の港は縄文時代には海ですが・・。

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この鞆の歴史はチラッとググればいくらでも出て来るので
僕は三日でしたが自分の足で歩いた感想というか歴史の雰囲気を感じた事などを書いてみたいです。
1人で出張に出かけるとご飯は夜1人でホテルの外に食べに行きます。
6時頃にお土産物屋さんで「このあたりでご飯を食べたり、お酒を飲めるお店はどこでしょう?」と尋ねると「そういうお店はほとんど無いけど、一軒だけあるよ、でも夜9時までだな。あとは真っ暗だよ。」と。。
こんなに観光地のような雰囲気なのに9時には真っ暗になると言います。
本当かな?と思ったのですがまさに日が落ちらグッと暗くなる鞆の夜です。
お店自体はとてもいいお店で大皿から、あれこれと言っておかずを注文してお酒も飲めました。でも、やっぱり9時くらいで閉めると言われました。
どうやら後は皆家飲みか寝るのか?漁師の街というところなのでしょうか?朝が早いからなのでしょうか?
でも、そんなところにも都会とは違った時間の流れを感じるようで、何か悪くは無いのですよね。お店を出てると、そこは県道47号、唯一この集落を通り抜ける車道。道幅は車一台。すれ違いは困難。これが例の一時期全国ニュースを賑わした道路です。
車文化は田舎に行けば行く程必須、であるのにこの狭さは致命的。不便とは何か?ですね。

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仕事で出たのは上の方に書いた神社での挙式と
島でのバーベキューパーティー披露宴でした。
島へはお父さんが舟で連れて行ってくれます。
その際にお父さんが教えてくれました。「あの島はな美人が多いんだ。どうしてっかて言うとな、あの島は元は海賊の島でな、お宝は金銀ばかりじゃ無くて美人もだったんだよ。だから美人が多い島なんだ。」
え!?「まじっすか?!」思わず寄って行きましょうよ。。と言いたくなったけれど、そんな分けにはいきません。
そうか瀬戸内は数えきれない程の島があるし、波は小さいし、海の文化は色々あって当然だよなぁ。。と。
ほんとかどうかを確かめもせず、変に信じたのでした。








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by furusatodiscovery | 2015-04-11 22:06 | 広島
青山通り表参道交差点
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表参道。
昨日に引き続き、お洒落スポット。
ここの歴史はあまりにも新しいのです。
表参道とはどこの参道かと言えば明治神宮の参道となります。
長い長い参道の両脇には30年以上も前から色々なお店が出来ては無くなりを続け、それでもいつの年代もお洒落スポットとして、その賑わいは衰える事がありません。
考えてみれば不思議なもので神社の参道が若者のお洒落スポットなのです。
とは、言っても表参道を神社の参道だと思って歩いている人はほとんど居ないのではありますが。。
表参道がいつ出来たかと言えば大正8年、明治神宮への参道として整備されました。翌年には並木が植樹され、今の原型ができたか?と思いきや、古い絵などを見ると、まさに参道。当時の天皇の力を思い知る程の大きな参道を見るばかりで、今のようなお店が建ち並ぶ姿は想像もできないものです。
明治神宮そのものが大正になってから作られたものなので表参道が出来たのが大正であるというのは当然の話なのですが、その前はというと青山家の下屋敷であったり、松平家の屋敷があったりと武家屋敷などが並ぶ地域で目黒辺りは田んぼや畑ばかりだったと考えれば、青山は家が元々多いところと言えるかも知れません。
ちなみに今の表参道を青山から下りると明治通りへ出るのですが、明治通りが出来きたのはとても最近のようで100年前でも存在しておらず、今のキディーランドの隣にある遊歩道の下になっている川から先は1600年代は田んぼと畑、明治になって鉄道が敷かれても、まだノンビリとした風景が広がっていたようです。
江戸は末期になると世界でも有数の人口を誇る都市で50万人以上が登録され登録されていない武家人口を含めると推計では100万人を超えていたと言われているのですが、それでも今より遥かに少ないわけですね。
それに町人達の多くは下町の方で暮らしていたと思われますから、こちら山の手は少し違う感じだったのでしょう。

こうして表参道を通して明治、大正という激動の時代を眺めながら江戸時代に思いを馳せると
あの、のんびりとした江戸の時代に、この街を歩いてみたいなと思ったりします。








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by furusatodiscovery | 2015-04-10 23:10 | 東京