縁のある地で挙げた結婚式の写真とその地の歴史を見ながら記事を書いてみたいと思っています。勝手な歴史考察を含めてなので間違いがあるかも知れないので、まるのまま信じないでね。本サイトはプロフィールページにリンクがあります。
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青山通り表参道交差点
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表参道。
昨日に引き続き、お洒落スポット。
ここの歴史はあまりにも新しいのです。
表参道とはどこの参道かと言えば明治神宮の参道となります。
長い長い参道の両脇には30年以上も前から色々なお店が出来ては無くなりを続け、それでもいつの年代もお洒落スポットとして、その賑わいは衰える事がありません。
考えてみれば不思議なもので神社の参道が若者のお洒落スポットなのです。
とは、言っても表参道を神社の参道だと思って歩いている人はほとんど居ないのではありますが。。
表参道がいつ出来たかと言えば大正8年、明治神宮への参道として整備されました。翌年には並木が植樹され、今の原型ができたか?と思いきや、古い絵などを見ると、まさに参道。当時の天皇の力を思い知る程の大きな参道を見るばかりで、今のようなお店が建ち並ぶ姿は想像もできないものです。
明治神宮そのものが大正になってから作られたものなので表参道が出来たのが大正であるというのは当然の話なのですが、その前はというと青山家の下屋敷であったり、松平家の屋敷があったりと武家屋敷などが並ぶ地域で目黒辺りは田んぼや畑ばかりだったと考えれば、青山は家が元々多いところと言えるかも知れません。
ちなみに今の表参道を青山から下りると明治通りへ出るのですが、明治通りが出来きたのはとても最近のようで100年前でも存在しておらず、今のキディーランドの隣にある遊歩道の下になっている川から先は1600年代は田んぼと畑、明治になって鉄道が敷かれても、まだノンビリとした風景が広がっていたようです。
江戸は末期になると世界でも有数の人口を誇る都市で50万人以上が登録され登録されていない武家人口を含めると推計では100万人を超えていたと言われているのですが、それでも今より遥かに少ないわけですね。
それに町人達の多くは下町の方で暮らしていたと思われますから、こちら山の手は少し違う感じだったのでしょう。

こうして表参道を通して明治、大正という激動の時代を眺めながら江戸時代に思いを馳せると
あの、のんびりとした江戸の時代に、この街を歩いてみたいなと思ったりします。








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# by furusatodiscovery | 2015-04-10 23:10 | 東京
銀座はいつから銀座なの?
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銀座と言えば、誰もが知っている日本有数の商業地域です。
高級なお店が並び、東京に数ある繁華街でも、銀座のそれは他とは違う雰囲気を街全体が醸し出しているように感じます。
では、銀座とは元々はどんな場所かと言えば
徳川家康が江戸城に入った頃はまだ江戸前島という砂洲だったのです。その先端あたりが今の銀座の場所となるようです。
幕府はその砂洲と江戸入江と言われた今の日比谷あたりの海を埋め立てる事業を始めました。
そこに職人達をおき、生産物を管理するという計画だったようです。
入江と砂洲の埋め立ては神田の山を削った土で33年の月日をかけたとか・・ずっと運んでたんですね。
そして出来上がった埋め立て地に銀を鋳造する職人を京都などから呼び寄せたました。
銀はとても価値のある金属で貨幣としても使われていました。それを作る職人を一カ所に集めて貨幣の掌握にでたというわけです。

ただ、どの時代もそうですが生きている庶民と権力の上にある人達の思惑は別の次元で動いている事が多く
そんな政治的な話とは無関係に、京都からやって来た職人達の出で立ちは江戸の人々を魅了したようです。
要するに最先端の(京都の銀職人の)ファッションが流行したわけです。
金銀を扱う、そしてファッション。すでにこの時代に今の銀座のあり方が見えて来るようです。

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明治に入り銀座はレンガの建物に変わります。
それは火事による焼失が原因で燃えない都市という目標の為にそうなったということです。
ただ、それは明治維新という政治的な話が大きく関わっていたのだろうな、と思います。
西洋化、文明開化などの象徴としては、ある意味ちょうど良かったと言うか・・。
そしてレンガ作りになった建物は家の値段が高価になって今まで居た人達で住めなくなった人達も多かったようです。代わりに商人達が入って来ましたと。。

400年前は老月村の人々が漁村として居たところに幕府の命令で自ら埋め立てをして・・そう考えると、月日が流れれば今の形はずいぶん変わる。
そういう事でしょうか。
ま、東京湾周辺は埋め立て地ですからね。








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# by furusatodiscovery | 2015-04-09 22:21 | 東京
稲敷より成田に嫁ぐ
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今回このブログを始めて、改めて稲敷という地を調べてみました。
すごく神社の多い土地であるという事が分かりました。
大杉神社という名前の神社のホームページを見ると律令制の前から信仰のある神社とあり
面白いなと思って色々と調べると
やはり鹿島神宮や香取神宮の事などが出てきます。
この地域においては鹿島や香取の両神宮は大きな存在だったのだなと思います。
それは、この地域が海と川と陸地とで分かれる地域だったからなのだろうと想像します。
前々回の記事でも書いたように利根川は昔は犬吠埼に向けては流れていなかったのですが
それでも天竜川などの水が抱負に流れていた事に変わりは無く
また2000年も前であるならば今よりもはるかに海は陸地に上がっていたでしょう。
それは霞ヶ浦などで分かる事です。
そして、その豊富な水の畔にというか崎に大杉神社や鹿島神宮、香取神宮があったのですね。
豊富な資源と自然への畏怖はその地に色々な思いを抱かせたのでしょうね。

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話は突然、明治になるのですが
稲敷郡は明治32年(1899年)に千葉県から茨城県に編入されたのですよね。
それは利根川の治水工事の負担を茨城県にもしてもらうための策だったようです。
利根川の恩恵を受けられる、受けられないの間ですったもんだがあった挙げ句の策みたいですね。
しかし、そう考えると僕らは今、都道府県の境は完全に決められたもので動くものでは無いと思っているのですが、わずか120年前にはそうして動いているわけで、その前には廃藩置県があったりするし、日本に朝廷や幕府などの政治が現れてからは何度も領地は変わっているので、今の境が絶対だと言う事は無いのでしょうね。


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この写真の車が走るあたりは時代が時代ならば川、もしくは海の中です。
そして舟で稲敷から成田に嫁入りをしたのでしょうね。
今は自動車で向かいます。
でも、思いは今も昔も共通するものがあったりしているかな?と思ったりしたのは
近所のおばさま達が嫁入りに駆けつけて涙を流していたのを見たからでしょうか。








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# by furusatodiscovery | 2015-04-07 21:54 | 茨城
実は城下町?のはずだった千葉県松尾町
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ここは千葉県の山武市にある松尾町という場所です。
最近までは市町村単位では松尾町でした。
例の平成の大合併で松尾町は山武町、成東町、蓮沼村とくっついて山武市となりました。
ただ、松尾町の松尾という地名は山武より遥かに旧い地名です。
僕の調べた古地図では約千年前の古地図にもその名前が記されています。
山武郡という地名が出来たのは明治も30年の話で山辺郡と武射郡が合併されて出来たので本当につい最近の話となります。




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松尾という場所は九十九里平野の際を中心としている町なので、それこそ旧石器時代から人が住み
6000年程前から海が引いて行き九十九里平野が出来上がるのを長い年月見ていた土地とも言えるわけです。
このあたりは数々の古墳や土器も見付かっているのですが
今回はそこでは無く、写真がせっかく松尾駅前なので松尾城の話としていこうと思います。




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松尾城はなんと明治2年の築城でした。江戸時代が終わってからの築城というのは意外な感じがします。
ただ、考えてみれば人々の営みは年号によって支配されるのでは無いのですよね。
年号が代わり江戸幕府が大政奉還をしたからと言って突然何もかもが変化するというのは現代でも考え辛く、なので明治維新のあの頃ならば当然、今までとこれからの移り変わりは、時間があったと思います。
少し細かく時代の背景を言うならば
版籍奉還で遠州掛川の大名太田資美がやってきて稜堡式という五稜郭と同じ西洋風の城を建て始めた。
という事のようです。
ただ明治七年には廃藩置県を受けて築城を中止したという事で完成を見ない幻の城となったのですね。
ちなみに太田資美は江戸城も築城した太田道灌の子孫でその彼がどんな城を建てたのか、完成も見たかったような。
まぁ、このあたりの土地では江戸時代には、それなりに繁盛した地域もあったようなのですが
明治になり政府という形でどんどんと西洋化が進み
そして、戦後はいっそうの中央に集まる仕組みが出来上がったようで
以前の繁栄は嘘のようになっています。
松尾という地域は、お城を建てていた時には侍屋敷が並び、一瞬の城下町的雰囲気があったのかも知れませんね。








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# by furusatodiscovery | 2015-04-06 21:59 | 千葉
水郷の町佐原を歩く
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千葉県にある佐原市は水郷の町として知られています。
その街並は昔ながらの風情を残し、今ではテレビの撮影や雑誌の撮影等でも使われる事があります。
この水郷佐原として発展したのは江戸時代からで、もともとは江戸湾に流れていた利根川を徳川家康の命により今の銚子に向けて東遷をした事から生まれたものでした。
利根川や渡良瀬川が江戸湾に注ぎ、凄い洪水が起きたという事や舟を使った流通の事など様々に理由があったようですが、利根川の姿を変えてしまうというのは凄過ぎます。。
しかし、そのおかげで佐原は大きく発展しました。
今では文化財の指定を受けた家や店が並ぶ「風情」という言葉が似合う街ですが、当時はとても賑わっていたのでしょう。
文化財の指定と言えば、住んでいる家を文化財に指定されると有り難いようで実はとても困るという話もあります。
なぜなら、勝手に新しい家に建て替えるなどは出来ないからです。
旧いものを大事にするのは良い事なのですが、時代が流れ昔とは違う建材で家を作り補修するようになった現代では、当時の状態を維持するには大変なお金と努力が必要になるようです。


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佐原の歴史は当然江戸時代から始まったわけではありません。
元々人が住んでいました。
いつからと言えば旧石器時代からです。
このあたり数千年前は海というか川というかの広大な入江が入り組んでいた場所であり
縄文海進から少しずつ海が引いて出来た土地ではあるものの
少し高い場所となれば元々陸地のところも多く、そうなると海の幸も川の幸も山の幸も獲れる良い場所でもあったわけですね。
この近くには香取神宮という古い神社もあって、そこも元々人が居た場所なのでしょう。
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# by furusatodiscovery | 2015-04-05 21:59 | 千葉