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鎌倉!と言えば、源頼朝、鎌倉幕府。 でもなんで鎌倉を選んだんだろう?と そこで少し調べると、どうやら地形的な優位性というのが一つの理由ではあるようだ。 鎌倉幕府とは言うなれば西からの独立。それは言い過ぎ?でも、朝廷支配から武士政治への変化の始まりであって、ここから700年くらいは武士政治が続いた事を考えれば画期的な権力の移行となったわけですね。 ま、このあたりは教科書の世界なので・・・。 しかし、どうして東国?というところへ疑問が向かうと、平氏の姿があって、なんで平氏が東国?となると元々は平氏も皇族の臣下で、東国は朝廷の支配に置いては西よりも遥かに遅く、7〜8世紀にかけて渡来人達を東国に移住させるなど開発?支配?があって、そんなこんなで平氏が東国への配置が・・。 まぁ歴史の変遷とでも言いますか、思惑が凄い絡まり合って。うううう。 ちなみに日本列島において早いうちに律令制、中央集権を始めたのが奈良や九州辺りの西の方なのではありますが、東の方はその勢力が及ぶまでには時が経つわけで、7世紀頃から関東には手を伸ばしますが、それまでは「ヤマト」では全く無いのですね。 要するに関東や東北には原住日本人の生活が残っていたという事になります。 そして、話を鎌倉にもどしますと、そんな列島支配の経緯から紆余曲折の末に源頼朝が幕府をしくわけではあります。 その頼朝によって陸奥の安倍氏は滅ぼされたりするわけで・・それまで朝廷による支配がいちおう列島に形の上で敷かれていたものの現実的な支配とは言い難かったものが頼朝によりほぼ統一されたと言える状態なのかなと。 どこかで何かが少し違って行ったりすると今の日本は平泉が中心だったなんて事もあったりするのかな? いや、平泉も西の影響、大陸の技術を入れての事だから、同じかな? それにしても、恐るべしは朝廷ですかね。 この武家政治の中で実質的な力を失っても消滅する事は無かったのですからね。 これがいわゆる政治力なのですかね。 #
by furusatodiscovery
| 2015-05-29 20:58
| 神奈川
伊豆半島は遥か昔、およそ3000万年前に1000km以上も南でその土台が作られフィリピン海プレートに乗って年間数センチの速度で進み、200万年〜100万年程前に日本列島と合体を始めた地域だという。 もちろん今の伊豆半島の形で動いて来るわけでは無いのですよね。 海底火山や島の火山が噴火を続け吹き出した噴出物で形を変え今の場所に衝突し半島になったそうな。 海に浮かぶ火山群が本州と繋がって半島になったのだから100万年前〜50万年前はさぞかし活発な景色が見えたのでしょうね。 ただ、日本列島に人の痕跡を見つけられる現在の調査では最古が9万年前とされていますし、世界的に見ても100万年前は原人の状態なので、人類と言える形ではまだ無いですね。 10万年前の伊豆や箱根は山が出来たり湖ができたりと活発ですね。 この頃になると、そろそろ列島に住む人達が現れて来るので、当時の人達は凄いモノを見ていた事になります。 伊豆半島では少し調べる限りでは3万年程前の遺跡が発見されていて道具を使う人達が現れているという事です。火山という事もあり黒曜石が取れるのできっと刃物などを作ったりは容易だったかも知れません。 ここで黒曜石なのですが、これが産地だけで使われたのでは無いようなのですね。 箱根でも伊豆半島でも取れた黒曜石なのですが、なんと神津島の黒曜石が能登半島で見付かったりするのです。(日本列島どころか大陸でも見付かっている?) 凄いですね、3万年近く前にどうやって神津島から黒曜石を運んだのでしょう? ともかく黒曜石は当時の人達にとっては大切な石だったのです。 そして黒曜石は多くの人達を繋いで行ったとも言えるのかも知れません。というか・・・3万年も前にすでに人々の交流があるという事実が、やはり単なる大昔の原始人のような認識とは違うのだなと感じます。 ところで、最近でも大湧谷の事などもあり、やはり動く場所なのだな。と思ったりするのですが、それと同時に自然の恵みを得られる場所なのだと言えると思うのですね。 非常にたくさんの温泉が出る場所が箱根、伊豆で僕も何度もお邪魔させてもらいました。いい湯です。 自然とは敬意と畏怖を持って相対するものだなと、動く列島、自然の恵みが豊富な列島の住民として思うのです。 まぁハイリスクハイリターンでは無いですけれど、そんな場所に住んでいるのです。 そしてハイリスクだけをローリスクにしようとするのはローリターンどころか、ノーリターンにするのだという事もそろそろ学ばねばなりませんね。 #
by furusatodiscovery
| 2015-05-28 17:41
| 静岡
埼玉県大宮市の氷川神社 なかなかの由緒のある神社です。 公式サイトによれば今から2千有余年前に第五代孝昭天皇の御創立とか。 現在の主催神は、須佐之男命と稲田姫命と大己貴命という事です。 そしてこの神様達は出雲大社と縁のある神様達という事になるでしょうか。 出雲と大和の系列は中々興味深いなと思ったりします。 ところで、この地を例のごとく縄文海進の時代に当てはめてみると またもや水の近くにあるのですね。 関東平野に入り込むようにあった海が入り組んだ入り江として大宮台地を囲んでいました。 現在の大宮駅はその半島とも言える土地の真ん中にあって現在ある氷川神社も同じような場所にあります。 また、氷川神社は水の神様だったという説もあるようで、江戸中期まで存在していた見沼という広大な沼の畔にあり、見沼の水神を祀っていたと。 何にせよ、今では想像もできないような台地と水の関係は古にはあったのでは無いかな?なんて思ったりします。 ちなみにウィキペディアには「アラハバキ」が祀られていたという事が書いてあります。「アラハバキ」は民間信仰としてあったもののようです。 そんな説も大昔の日本が分かれば色々と見えてくるのでしょうけれど、今はロマンの一つという事でしょうか。 それにしても、大宮氷川神社はとても力がある神社なのでしょうか? その時代の武将達はこの大宮氷川神社を参拝しているようです。 古くは日本武尊の東夷鎮定の祈願に始まり 出雲族の武蔵国造、源頼朝の社殿再建 聖武天皇が武蔵一宮と定め その他にも平貞盛、徳川家康と蒼々たる面々が名を連ねます。 明治以降も天皇の御親拝などは続いているようですね。 面白いのは東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている事です。 昔からそうなんだでは無く、その大きな事業というものが、どの時代にもあって、そこに関わる神事のようなものが存在するという事 昔とか今とかの区切りを無くして見せる一つの方法だと思ったりします。 #
by furusatodiscovery
| 2015-04-26 20:40
| 埼玉
諏訪大社 『その期限については知る術もありません。』と公式サイトに書いてあります。 きっと公式な文献が無いのでしょう。 そりゃ無いですよね。 諏訪大社で有名な御柱祭の起源が何であるのかも「説」として色々あるわけですしね。 ただ、文献上に出て来るだけでも旧いのですよね。昔からある神社なのです。 この神社に何度か結婚式の撮影で伺いました。 不思議とご縁のある土地であったりするようです。 ほとんどの新郎もしくは新婦が、この土地のご出身の方で、その方々はやはり諏訪大社で結婚式はしたいというご要望でした。 そんな中でこの地とは出生の縁がある分けでは無いのだけれど、まだ恋人同士の頃に遊びに来た諏訪大社をご覧になって「ここで結婚式をしたい」と思った方がいらっしゃいました。 なぜ、そう思ったのかを尋ねると「山が良いのです。」と答えられました。 実は僕も諏訪大社は山が良いと思っていました。 現在ある諏訪大社上社本宮の山は曇りの日が良いです。天気が良いと手入れされた山が透けてくるのです。 それよりも太陽の光が強く刺さない曇りの方が山を感じられる。山の濃さとでも言うのでしょうか。そんな気がしました。 そのお客さんを撮影するようになってから諏訪大社上社では山を意識して写真を撮るようになりました。 その後自分でも諏訪大社を少し調べるようになって諏訪大社上社前宮に行きたいと思うようになりました。 そこは今の上社よりも山の上の方にあります。公式サイトでは『古くは神殿に付属したお社でした。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御神際が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。』とあります。 ここから始まったとされているようです。 もう少し調べると神体山が守屋山というのが出て来たりします。ここを探り続けるとパワースポットとかいう今風の言葉が多く出て来るので僕はパスです。(苦笑 ただ、山を神様として崇めるというのは良くある話です。 山や川、木、岩、海・・・多くの自然を神とする八百万の神の思想はとても日本人らしいと感じます。今でも普通に色々なモノに話しかけますからね僕たちは。。車くん頑張って走ってねみたいな。(ちょっと違う?) そんな事を色々と見ているうちに小袋石という凄い石のある事を見つけました。 どうやら、この石の突端に舟を繋げたという事であったりする話もあるらしく、もし本当だとすれば昔々はこのあたりまで諏訪湖があったという事になるのですよね。 それは現在の諏訪の街は湖の底で、大きいと思っている諏訪湖も実は今ではずいぶん小さくなったという事なのですよね。 あ〜〜凄い景色を想像してしまいます。 そして、この小袋石と磯並社は今でもちゃんと祭られているし、たとえ祭られていなくても、そんなことは関係無く、荘厳な雰囲気を漂わせているのです。 諏訪を含めた八ヶ岳周辺は縄文遺跡が数多く発見されている場所で当時と今とでは湖や川の形は変化していると思うのですが その山などの大まかな形はそのままであろうと思うと、その当時の人々が夜と昼との明かりの中で自然の音と色に囲まれながら どんな暮らしをしながら何の会話をしていたのだろう?そんな想像をしてしまいます。 #
by furusatodiscovery
| 2015-04-14 00:25
| 長野
鞆の浦。 この地は歴史が非常に多く語られていて、現)沼名前神社が合祀以前の渡守神社の創建は仲哀天皇の時代の神功皇后が西国に向かう際に立ち寄ったと際に社が無い事を知って、斎場を設け、海路の安全を祈願したのが始まりと言われていまして このあたりの時代(仲哀天皇)の事はかなり神話めいて居る事も多いので何とも言えないのではありますが、後には万葉集の歌にも登場してきたり(700年代)、「室町幕府」の始まりは足利尊氏が天皇から院宣を受け取った事からで、その地が鞆の浦で15代将軍足利義昭が滅ぶのもこの地と「足利は鞆に興り、鞆に滅ぶ」と言った具合で、まぁ歴史に事欠かないようです。 僕としては歴史はアマテラスからとは思わないので、その前はどうなのだろう?と探すのですが、弥生時代にはすでに集落があったようだとは伝えられるものの、その後の歴史が華やかだからか、あまりそちらの情報は無いようです。 ちなみに縄文の土器なども出土はしているのですよね。 何となく古地図なんかも探してみたり、縄文海進などの時代はどうなのかな?と思ったり少し見てみたのですが切り立った土地柄らしく、大きく地形は変化しないようです。もちろん今の港は縄文時代には海ですが・・。 この鞆の歴史はチラッとググればいくらでも出て来るので 僕は三日でしたが自分の足で歩いた感想というか歴史の雰囲気を感じた事などを書いてみたいです。 1人で出張に出かけるとご飯は夜1人でホテルの外に食べに行きます。 6時頃にお土産物屋さんで「このあたりでご飯を食べたり、お酒を飲めるお店はどこでしょう?」と尋ねると「そういうお店はほとんど無いけど、一軒だけあるよ、でも夜9時までだな。あとは真っ暗だよ。」と。。 こんなに観光地のような雰囲気なのに9時には真っ暗になると言います。 本当かな?と思ったのですがまさに日が落ちらグッと暗くなる鞆の夜です。 お店自体はとてもいいお店で大皿から、あれこれと言っておかずを注文してお酒も飲めました。でも、やっぱり9時くらいで閉めると言われました。 どうやら後は皆家飲みか寝るのか?漁師の街というところなのでしょうか?朝が早いからなのでしょうか? でも、そんなところにも都会とは違った時間の流れを感じるようで、何か悪くは無いのですよね。お店を出てると、そこは県道47号、唯一この集落を通り抜ける車道。道幅は車一台。すれ違いは困難。これが例の一時期全国ニュースを賑わした道路です。 車文化は田舎に行けば行く程必須、であるのにこの狭さは致命的。不便とは何か?ですね。 仕事で出たのは上の方に書いた神社での挙式と 島でのバーベキューパーティー披露宴でした。 島へはお父さんが舟で連れて行ってくれます。 その際にお父さんが教えてくれました。「あの島はな美人が多いんだ。どうしてっかて言うとな、あの島は元は海賊の島でな、お宝は金銀ばかりじゃ無くて美人もだったんだよ。だから美人が多い島なんだ。」 え!?「まじっすか?!」思わず寄って行きましょうよ。。と言いたくなったけれど、そんな分けにはいきません。 そうか瀬戸内は数えきれない程の島があるし、波は小さいし、海の文化は色々あって当然だよなぁ。。と。 ほんとかどうかを確かめもせず、変に信じたのでした。 #
by furusatodiscovery
| 2015-04-11 22:06
| 広島
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