縁のある地で挙げた結婚式の写真とその地の歴史を見ながら記事を書いてみたいと思っています。勝手な歴史考察を含めてなので間違いがあるかも知れないので、まるのまま信じないでね。本サイトはプロフィールページにリンクがあります。
by furusatodiscovery
タグ
画像一覧
メモ帳
ブログランキングです。よろしければクリックお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村



結婚式・ブライダル ブログランキングへ
お気に入りブログ
記憶に残った1枚|結婚式...
東に向かえば海がある
以前の記事
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
最新の記事
幕末の伊豆で起きたロシア人と..
at 2015-10-30 21:45
赤坂という土地を見ていて江戸..
at 2015-09-29 20:05
海の幸と航海に彩られた沖縄の..
at 2015-09-10 22:44
桃源郷かと見まごう場所で福島..
at 2015-08-20 13:48
江ノ島は陸から離れたから良か..
at 2015-06-21 17:49
記事ランキング
カテゴリ
全体
福島
茨城
埼玉
東京
千葉
神奈川
静岡
長野
広島
沖縄
未分類
最新のコメント
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
ブログパーツ
<   2015年 09月 ( 2 )   > この月の画像一覧
赤坂という土地を見ていて江戸の末期を考えてしまった。
赤坂

現代の東京でこの街の印象は「高級○○」(笑
車を停めても何か食べても、とにかく高いという印象です。
さてこの赤坂氷川神社ですが、由来としては10世紀、11世紀頃から降雨を願う神様として祭事があったと言われているようです。
社殿は徳川の八代将軍、徳川吉宗が造営したという事です。
それから忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の夫人の瑤泉院の実家、浅野土佐守の下屋敷だったりしています。

この赤坂氷川神社を調べると今井城というお城の名前が出てきます。元はここはお城だったいう言い伝えがあるようです。主は木曾義仲の四天王の一人で今井兼平だったと言うのですが、色々と調べている方の話を読むと、かなり怪しい話だという事のようで伝説の扱いになっているみたいですね。
赤坂は、以前は人継村という場所だったようで、開拓は1567年、家康が江戸に入る前の事です。その頃は人家など無い山畑だったと言いますから、そこから考えると前述した今井城はやはり無さそうですね・・。
それにしても、昔の赤坂は人家の無い山畑だったと言われても現代の我々には想像できないですね。

c0365516_20000342.jpg


江戸って言うとどうしても江戸幕府で徳川家康なんですけど、当然その前から人が住んでいるわけです。
江戸と言う名前を名乗った最初の人は江戸太郎という12世紀の人だそうです。その江戸太郎という名前は江戸という名の地に住むようになったから改名して江戸太郎にしたという事なので、たぶん千年以上前から江戸という地名があったのですね。
ちなみに江戸の江は川とか入り江で、戸は入り口を現す言葉だそうなので「川の入り口」もしくは「入り江の入り口」という事なのだそうです。千年以上前の関東平野は今よりも遥かに湿潤な土地だったろうと推測できますし、家康の利根川東遷事業が始まるずっと以前の事ですから、まだまだ入り組んだ岬のような状態があったのでしょう。
水害などの苦労はずいぶんあったと思いますが、その分その土地特有の自然の恩恵はたくさん受けていたのだろうなと思います。江戸湾なんて良い漁場だったのだろうなぁと。
現在赤坂と言われている場所も縄文の時代は水に囲まれた半島のような場所です。赤坂氷川神社の辺りがちょうど半島になって、溜池などの辺りは完全に水の中ですね。少しずつ海が引いていったとは言え、千年前程度ならば、その名残りはまだまだ感じられた事でしょう。
今でも氷川神社の周辺を歩くとけっこう急な坂が多いので、その事を知るとなるほどな、と思えます。

江戸時代に入ると赤坂は人継村を一木と書くように変わったそうで、その頃もまだ赤坂では無いのですね。赤坂の文字が初めて地図に載るのは家康が江戸に入ってから半世紀以上が経過した1657年の地図だそうで、その頃になると赤坂には松平などの武家屋敷が出来ていてます。溜池は水瓶としても使われたらしく、大きな池のような感じですね。江戸末期の広重の絵にも溜池が出てきますが、当然今とはまるで違った景色で、水をいっぱい溜めた池があり山王台の日枝神社も森の中にあるようです。今は外堀通りがあってそこからエスカレーターですね。(苦笑

c0365516_20002232.jpg


天下泰平の江戸時代は江戸の街を世界でも有数な巨大都市にしていきます。
江戸末期に訪れた外国人が芝公園近くの愛宕山から江戸の街をパノラマのようにして写真を撮っていますが、(こちらに江戸のパノラマ写真があります)それはそれは凄い景色です。ただ、そうは言っても江戸時代の都市の広がりは現在のそれとは比べ物にならないくらいに小さいです。ざっくりとその広さを言えば江戸末期ですら山の手の都市部は明治通りの内側だけですね。それにある本を読んだところでは、実に緑と水の多い都市だと江戸を訪れた外国人が言っています。それは見事に都市と田園が入り交じったものだったと。
わずか150年前なのに写真を見ても、話を聞いても、まるで知らない国のようです。

そして、明治という時代に入ると、赤坂に二百年以上も建っていた大名屋敷や旗本屋敷は姿を消し、代わりに日本軍の施設が立ち並ぶようになります。
名前も江戸から東京へと変わります。これは東の京ですね、天皇が居る所を京とする。結局のところ「御一新」をして近代化を進めるためには天皇の居場所を移すしか無いと思ったようですね。面白いなと思うのは、やはり天皇を味方に付けるとでも言うのか、その力を必要としているみたいなところですね。すでに形だけの王様のようになっているはずであるのに、やはり天皇は重要だとしている分けです。

c0365516_20003366.jpg


東京奠都(とうきょうてんと)という、かなり近代日本の歴史の中でも重要な場面を見ていくと、不思議な事や面白い事が見えてきますね。
この一大事業は大久保利通が中心になってやるようなのですが、どうやら決定的な助言をした人が居て、それが前島密という人なのですね。
大久保利通への助言の中で彼はいくつから江戸に遷都する理由を述べているのですが、その中で、僕的に気になったものを上げみます。
一つ目は、江戸市民が今まで幕府のお膝元だったのに、いきなり都じゃ無くなると、江戸から人が離れてしまうというのです。
だけど、僕が想像するには「それは無いよね」という感じです。そりゃ旗本とかやってた人にとっては幕府が無くなると困る人も居たでしょうけれど、その他の人にとっては江戸の街が必要なのであって幕府が必要なのでは無いのだと思うのですよね。
幕府も江戸の文化が作られる過程に関わったりはすると思うのですが、ただ、僕が好きな江戸の文化は町人達の生き生きとした文化で、それは風俗とも言えるような世界、それが芸術的ですらあると言うように高められた。そして、たぶんそれを江戸っ子達も好きだったのだと思うし、ある種の誇りもあったのだろうなと思うのですよ。
だから幕府という何やら手の届かない世界の人達がそこに存在するという認識は当然あっても、それが生活の全てでは無いのだと思いますね。どこか大きな政治と生活が分離しているような感じがします。きっと、その感じって今の日本の人にも共通している感覚だと思うのですよね。
自分達市民が参加して幕府や政府などの政治を動かして日本を舵取りしている感覚は無いから、だから誰がやっても同じ事。そんな感覚で現代の日本も政治に対する無関心というのはあるのだと思うのだけれど、それは江戸時代なら尚更かな?と思うのです。
だから江戸の人達が大政奉還で幕府が消えて、その後どうなるだろう?と不安にはなったとしても、また都じゃなくなる事に、何だか景気の悪い話だねぇてな事もあるにしても、その後、平和な江戸が続けば、問題は全く無かったと思うんですけどね。
ただ、明治政府って何だかな?てな所が多々あるような気がしますから、統一政府として全国に与える影響から、たとえ首都が東京では無かったとしても江戸は江戸時代の活気を保てたかは解らないですけどね、怒濤の改革ですから。ただ、江戸が地方都市であるならば、今の東京のように昔を断ち切ったかのような街では無いと思えるのですが・・。

あと、もう一つ、前島密は蝦夷地開拓を言うのです。
要するに北海道の開拓ですね。これは必要な事だと。大まかな目的としては近代化の資源として木材や石炭などが必要だと。そしてロシアなどから日本を守るために未だに王化が進んでいない地を自分達の領土として確立し防衛に当たるという感じなのですね。
当時の北海道は松前藩があったものの北海道のほとんどはまだアイヌの人達の国と言っても良い状態です。
とは言ってもヤマトと敵対している分けでも無いのです。ただ幕府にはあまり関与されずに大自然の中で生きている人達が居るわけですね。
そこの開拓は必要だと言うわけです。もしかすると西洋で学んで来た植民学が影響していて、少しでも多くの領土を持つ事が重要だと信じていたのかな?とか想像はするのですが・・。
そうだとすると自分達が恐れた欧米列強の植民地政策に対して、忌み嫌う事はせずに学んだ(真似た)という事になるのでしょうか。
とにかく、この蝦夷地の開拓をするには江戸が良いと、大阪じゃ遠過ぎて目が届かんという分けですね。

まぁその他に江戸はすでに大都市ですし、当時の日本の都市としては大きな道もあったりで、都合が良いとか色々あるみたいですが
大久保利通としては、この前島密の助言を聞いて大阪遷都から東京遷都へ大きく変わったと言われています。
ただ、明治政府が前島密の案を採用した本音としては政府が資金難だった為に「江戸遷都は金がかからない」という事が大きかったという話もあるようです。

c0365516_20002914.jpg
僕は個人的には幕府が無くなったんなら都は京都に戻してもらって良かったかな、なんて思うのですが、結局は維新の志士達は、のんびり公卿の政治なんてつきあってられないと、まごまごしていると海外の力に日本が飲み込まれると、近代化(西洋化)しか無いと、それがこの国を守る事・・。夷狄からヤマトを守ること・・。都を江戸へ、東京遷都をと。

ただ、百五十年も経過した今だから、そんな事が言えるのかも知れませんよね。初めて見た蒸気機関や武器に驚かされて、隣の大陸ではアヘン戦争に破れた清国を見て、欧米の植民地政策が極東の島まで進んで来た状態で、特に米国は最後は軍事力を使ってでも、こじ開けるような雰囲気があったようにも感じますし、また西洋の人達は西洋の人達で自分達の文明を広げる事は良い事だと思っている節も感じられ、その勢いを、のらりくらりと時間をかけて、かわしていきながら、自分達の未来を探るような、そんな器量や戦術や先見性を持った人は維新の志士達や幕府や朝廷の中には居なかっただろうなぁと想像します。世界的な歴史が西洋文明の全盛期に進む、その時代ですから、仕方が無いと言えば仕方が無いのではありますが、もったいないなぁと思ったりもするのです。
こういう事って、もしかすると、いかに自分達が生きている場所や文化に大切さを感じているか?にもよるのかな?とふと思います。
この時代は重要な事は何か?という問いかけの答えは「国」を守る事しか無かったのでしょうね。

歴史のもしもではあるけれど、もしも、江戸幕府の終焉が本当の一般市民が望んだ国家体制の変化だったならば、江戸は江戸のまま、大きな下町、江戸湾の街だったのでは無いかなと、そして現在はどんな街になっていただろう。そう想像してしまいます。
ただ、世界的な歴史を見ると、市民が革命を起こして変化をした国で結果的に良い国になった国はあるのかと言えば・・また王様や政治家が作った国で結果的に良い国があるのかと言えば・・さてさて、どうしたものか?ですね。





[PR]
by furusatodiscovery | 2015-09-29 20:05 | 東京
海の幸と航海に彩られた沖縄の歴史に思いを馳せて
沖縄

何度か訪れた事のある場所です。
当然なのですが気候風土が本土とは違うので、その建物の様子は違ってきます。
本土に直撃したらひとたまりも無いであろう大きな台風が毎年のようにやってくる沖縄ですから
それに対応した家が建っているのです。
なぜそこまで大きな台風が沖縄にやって来るかと言えば当然南の海の島だからです。
それは海の幸に豊富に恵まれた土地と言えるでしょう。

c0365516_22405027.jpg


沖縄の歴史を調べると、すぐに出てくるのが琉球王国についてです。
およそ600年程前に琉球王国は誕生したそうです。それ以前は三山時代と呼ばれ、北山、中山、南山の三つに沖縄本島は分かれ、それぞれに王様が居たそうで、その三つの国を統一させた王様が現れて琉球王国となったそうです。

その前となると、調べるのがなかなか難しいのですが、先史時代という区分がされていて
やはり三つに別れているようです。それは三山時代とは違って文化圏として区分しているようで
薩南諸島の北部文化圏、沖縄諸島と奄美諸島の中部文化圏、宮古・八重山諸島の南部文化圏となるそうです。
その区分けは土器の種類に依存しているみたいで、北部は本土(九州)の縄文土器に影響を受けていると、中部は北部の影響を受けつつ独自の発展をとげたそうで、そして南部は本土とは関係無く台湾やフィリピンなどの南方諸島の影響が深いということです。
面白いのはこの新石器とか旧石器とか言われる石器時代が沖縄は長いのです。沖縄の遺跡はとても古く3万2千年前の人の骨が見付かっています。そして先ほど書いた三つの文化圏はおよそ千年前まで続きます。なので始まりは本土と変わらぬ時期だと思うのですが、石器や土器そして当然貝を道具として使う時代が本土よりも千年以上長く続いたという事になるわけです。

この先史時代の沖縄の生活とはどんな生活だったのでしょう。
あまり詳しくは語られていないようなので、かなりの推測を交えて書いていくと、それは海の幸と海上交通の生活と言えるのでは無いかと思うのです。
海の幸とそれから内陸における山の幸、そして気候は常夏の島。食料に困る事は無さそうです。
そして海上交通なのですが「貝の道」というのがあったようです。
それは二千年前頃の事で本土では弥生時代と言われている時代の頃です。貝や貝製品が九州や近畿、日本海側、そして北海道までに渡っていたという事なのですね。
これは凄いですね。本土でも旧石器時代の頃に黒曜石を神津島から運んだという話があるようですし、沖縄は海に浮かぶ島ですから、それなりに船の技術は向上すると思うので、そんな海上交通があっても不思議では無いと思うのですが、やはり命がけの航海だったことは間違い無いだろうと思うと凄い事ですよね。それにしても、どんな船で大海原を渡ったのでしょうか?丸木舟というのは無理があると思います。東南アジアでは紀元前3000年頃にはアウトリガー付きカヌーの帆船があったとも言われているので、先ほど書いた沖縄の南部文化圏がフィリピンや南方諸島の影響を受けているという事ですから、この線から伝わって来ているのかな?と思ったりします。
そして、この海上交通はおよそ800年に渡って続けられたという事です、沖縄の人々が運ぶ品々はずいぶんと本土の人々に重用されたという事なのですね。

c0365516_22403796.jpg


このように単なる海の狩猟だけでは無くヤマトや大陸との交易を行っていたとすると、それは僕らが石器時代と聞いた時に思いだすイメージとは違うのでは無いか?と思わざるを得ません。
そして当時はまだ、王様を抱くような民族では無かったとすれば、社会の構成としては本土的に言うと縄文人という感じになるのかな?と思います。
この沖縄の人と縄文人についてなのですが、数年前に発表された研究結果に、DNAとして見ると琉球人とアイヌ人が本土人よりも縄文人により近いのだという事でした。
これは海で遮られている土地柄、この3千年くらいの間の人々の交配が本土のように渡来人と関係する事は多く無かったのでは無いか?という事です。
僕も、その説はとても腑に落ちます。朝鮮半島に最も近いところから渡来人が渡り、それが本土を北上するように渡っていった。九州より南へ行くには、大海原が存在し伝播し辛く、また本州は北に長く、陸奥は暫くの間はエミシの地としてヤマトと敵対する関係でもあった。なのでそれよりも北であり、津軽海峡を挟んだ蝦夷地には渡来人の伝播はやはり琉球と同じようにし辛かったのだろうなと。
それと、縄文時代の人口分布は圧倒的に東日本が多いと言われていて、そうだとすると渡来人にとっては、あまり人の居ない場所にやって来たことになり、これも渡来人の定住と先住民の交流、渡来文化の反映の進み方を早めるのにも都合が良かったとも言えるのでは無いか?と想像します。
文化的に見ても、それまで琉球、本土、蝦夷地とあまり変わらなかった文化が、本土は、特にこの2千年で急激に、それまでの縄文の生活から打って変わって文明的とでも言うのか政治が人々の生活を左右する社会へと変貌しいきます。
それに対して琉球や蝦夷地は渡来人の流入が少なかったために縄文の文化を残しながらゆっくりとした時代が流れため、石器時代と言われるような文化が長く残ったのでは無いかなと思います。
物理的な自然の隔たりが民族の社会を隔てていた。言い換えれば自然と人間が近しい存在だった時代と言えるのでしょうね。

c0365516_22404477.jpg


しかし、そんなゆっくりとした時代の流れを生きていた島々にも政治的な社会が関わるようになってきます。
それは、お隣の大陸で大勢力となった明の台頭です。
沖縄も15世紀の頃には琉球王国へと形は変えて東アジアの大勢力である明の冊封体制に加わっています。それは明に対して貢ぎ物を出す「朝貢」をして、ひとつの王国であると認めてもらうという事であるのです。
ただし、貢ぎ物をしていたと言っても、どうやらそれは、単なる配下に入るという事では無く、琉球王国はヤマトや東南アジアの貿易の中継基地として明に関わったようで、ヤマトや東南アジアの品々を明に渡し、そして明から多くの商品を仕入れて、それをまた日本や東南アジアに売りさばくという体制を作ったのです。
冊封体制という明中心の国際秩序、盟主と臣下の関係を築いたもののみに与えられる交易権を利用した形とも言えるのですね。
その頃の琉球王国は「琉球王国の黄金時代」とも言われるらしく、とてもうまく行ってたいのでしょう。
ま、上手い事やったと言う感じでしょうか?(笑

その後、九州の薩摩藩が豊臣秀吉の東アジア征服の野望に加担するようにと要求をしてきたのですね。
ただ琉球の民族は戦争の経験が無いので、変わりに兵糧米を出せと言われたわけです。それも相当の量の。(7,000人・10カ月分)
その頃ちょうど明にも貢ぎ物を出さねばならぬ時期だったようで、仕方無く半分の兵役を受けたという事です。
その後、秀吉が死に江戸幕府の時代に入ると大陸との関係を修復したい徳川家康は琉球を使う事を考えました。
しかし琉球としては明との関係を大事にして、それに応じませんでした。
すると薩摩藩の島津氏がこれ幸いと琉球王国を武力によって制圧したのです。これ幸いというのはちょうど薩摩藩はお金に困っていたのです。
それからは良いように薩摩藩は琉球を使う事になります。
琉球の人々は薩摩藩からの圧政の中で疲弊しいったのですが、それでも日本本土からの文化などを吸収しつつ独自の文化を作るようになりました。それが現代に伝わる琉球文化となっています。
ここで、僕が気にかかったのは「琉球の民族は戦争の経験が無いので」というところです。
三山時代という戦いの歴史があったようにも思うのですが、他国から見たら戦闘の経験の無い国なのですね。
それと、薩摩藩の島津氏が江戸幕府になってから琉球に攻めて来た時も3000人で攻めたらしいのですが、わずか10日で首里城を明け渡したそうです。その理由は「戦闘の経験もあまり無く、大した武器も持っていない」だそうです。
やはり、これは色々と考えさせられます。すでに江戸幕府を擁する日本では無く、その前のヤマト王権の時代の日本まで遡ると何やら複雑な想像をしてしまいます。

c0365516_22403193.jpg


その後、江戸時代も末期になると以前にも増して西洋からの来訪者が訪れるようになります。黒船の来航です。
ペリーは沖縄に立ち寄った際に色々と調べているようです。それは地理的に見た沖縄の重要度を感じているからです。
もし幕府が開国をしないならば沖縄だけでも取ってしまおうと思っていたようです。
その後、明治になり明治四年の廃藩置県によって所謂「琉球処分」が始まるのです。
これまた沖縄の人々にとっては酷い政治が始まります。
そうこうしているうちに日本は戦争に明け暮れる時代へと突入、とうとう日米開戦まで起こしてしまい、沖縄はまさに戦場と化し、今度は米国による支配が始まりました。日本は大東亜戦争において敗戦を喫し、連合国(米軍)の支配下に置かれますが、1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の締結によって独立という形になります。しかしながら沖縄だけは米軍支配のまま、となったのです。
振り返ってみれば、ペリーがやって来た頃の米国の戦略が数十年経過して成就したと言えるのかも知れません。
その後、米国は沖縄に大きな基地をたくさん作りました。米国は20年もの間、沖縄を基地の島として扱っていきました。
その間、沖縄県民はたくさんの祖国復帰運動を繰り広げていきました。
その沖縄県民の思いは「核も無い基地も無い平和な島」としての返還でした。
しかしながら当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で交わされた「沖縄返還協定」は沖縄県民の意志を反映せずに進み、1972年(昭和47年)に沖縄は日本に返還されました。
その後も沖縄は日米安全保障条約地位協定に乗っ取った米軍基地がそのままに残り、今では誰でも知っている新しい巨大基地、辺野古が作られようとしています。
辺野古はもちろん沖縄県民の民意では移設反対、全米軍基地の撤退なのですが、相変わらず両政府ともに聞く耳を持っているとは言えないようです。

こうして辺野古の問題を今僕たちは目の当たりにしているのですが
歴史とは過去だけでは無く今も歴史だと感じざる得ません。それは過去という綿々と続いている時間が今に繋がっているということです。
沖縄では現在「琉球独立」が真面目に語られるようになったと言われます。
歴史を見れば、ヤマトとの関わりで沖縄が良かった事などあったのか?と思ってしまえば、独立したいという思いは仕方が無いとも思えてしまいます。
ただ、僕としては政治的な意味は全く無く沖縄が独立すると遠くなるような気がして、なんとなく寂しいなという思いがあります。
でも、その寂しさとは虚しい「国」としてのあり方の問題なのだなぁと思うと、根本的な部分で何かが変わらないといけないと感じます。




[PR]
by furusatodiscovery | 2015-09-10 22:44 | 沖縄