縁のある地で挙げた結婚式の写真とその地の歴史を見ながら記事を書いてみたいと思っています。勝手な歴史考察を含めてなので間違いがあるかも知れないので、まるのまま信じないでね。本サイトはプロフィールページにリンクがあります。
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氷川神社の力?
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埼玉県大宮市の氷川神社
なかなかの由緒のある神社です。
公式サイトによれば今から2千有余年前に第五代孝昭天皇の御創立とか。
現在の主催神は、須佐之男命と稲田姫命と大己貴命という事です。
そしてこの神様達は出雲大社と縁のある神様達という事になるでしょうか。
出雲と大和の系列は中々興味深いなと思ったりします。

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ところで、この地を例のごとく縄文海進の時代に当てはめてみると
またもや水の近くにあるのですね。
関東平野に入り込むようにあった海が入り組んだ入り江として大宮台地を囲んでいました。
現在の大宮駅はその半島とも言える土地の真ん中にあって現在ある氷川神社も同じような場所にあります。
また、氷川神社は水の神様だったという説もあるようで、江戸中期まで存在していた見沼という広大な沼の畔にあり、見沼の水神を祀っていたと。
何にせよ、今では想像もできないような台地と水の関係は古にはあったのでは無いかな?なんて思ったりします。
ちなみにウィキペディアには「アラハバキ」が祀られていたという事が書いてあります。「アラハバキ」は民間信仰としてあったもののようです。
そんな説も大昔の日本が分かれば色々と見えてくるのでしょうけれど、今はロマンの一つという事でしょうか。

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それにしても、大宮氷川神社はとても力がある神社なのでしょうか?
その時代の武将達はこの大宮氷川神社を参拝しているようです。
古くは日本武尊の東夷鎮定の祈願に始まり
出雲族の武蔵国造、源頼朝の社殿再建
聖武天皇が武蔵一宮と定め
その他にも平貞盛、徳川家康と蒼々たる面々が名を連ねます。
明治以降も天皇の御親拝などは続いているようですね。
面白いのは東北新幹線開業を祝い、この年から薪能が毎年5月に催されている事です。
昔からそうなんだでは無く、その大きな事業というものが、どの時代にもあって、そこに関わる神事のようなものが存在するという事
昔とか今とかの区切りを無くして見せる一つの方法だと思ったりします。








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by furusatodiscovery | 2015-04-26 20:40 | 埼玉
諏訪の地は、山がいい。
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諏訪大社
『その期限については知る術もありません。』と公式サイトに書いてあります。
きっと公式な文献が無いのでしょう。
そりゃ無いですよね。
諏訪大社で有名な御柱祭の起源が何であるのかも「説」として色々あるわけですしね。
ただ、文献上に出て来るだけでも旧いのですよね。昔からある神社なのです。

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この神社に何度か結婚式の撮影で伺いました。
不思議とご縁のある土地であったりするようです。
ほとんどの新郎もしくは新婦が、この土地のご出身の方で、その方々はやはり諏訪大社で結婚式はしたいというご要望でした。

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そんな中でこの地とは出生の縁がある分けでは無いのだけれど、まだ恋人同士の頃に遊びに来た諏訪大社をご覧になって「ここで結婚式をしたい」と思った方がいらっしゃいました。
なぜ、そう思ったのかを尋ねると「山が良いのです。」と答えられました。
実は僕も諏訪大社は山が良いと思っていました。
現在ある諏訪大社上社本宮の山は曇りの日が良いです。天気が良いと手入れされた山が透けてくるのです。
それよりも太陽の光が強く刺さない曇りの方が山を感じられる。山の濃さとでも言うのでしょうか。そんな気がしました。
そのお客さんを撮影するようになってから諏訪大社上社では山を意識して写真を撮るようになりました。

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その後自分でも諏訪大社を少し調べるようになって諏訪大社上社前宮に行きたいと思うようになりました。
そこは今の上社よりも山の上の方にあります。公式サイトでは『古くは神殿に付属したお社でした。高台で豊富な水や日照が得られる良き地で、御神際が最初に居を構えられ、諏訪信仰発祥の地と伝えられています。』とあります。
ここから始まったとされているようです。
もう少し調べると神体山が守屋山というのが出て来たりします。ここを探り続けるとパワースポットとかいう今風の言葉が多く出て来るので僕はパスです。(苦笑
ただ、山を神様として崇めるというのは良くある話です。
山や川、木、岩、海・・・多くの自然を神とする八百万の神の思想はとても日本人らしいと感じます。今でも普通に色々なモノに話しかけますからね僕たちは。。車くん頑張って走ってねみたいな。(ちょっと違う?)
そんな事を色々と見ているうちに小袋石という凄い石のある事を見つけました。
どうやら、この石の突端に舟を繋げたという事であったりする話もあるらしく、もし本当だとすれば昔々はこのあたりまで諏訪湖があったという事になるのですよね。
それは現在の諏訪の街は湖の底で、大きいと思っている諏訪湖も実は今ではずいぶん小さくなったという事なのですよね。
あ〜〜凄い景色を想像してしまいます。
そして、この小袋石と磯並社は今でもちゃんと祭られているし、たとえ祭られていなくても、そんなことは関係無く、荘厳な雰囲気を漂わせているのです。
諏訪を含めた八ヶ岳周辺は縄文遺跡が数多く発見されている場所で当時と今とでは湖や川の形は変化していると思うのですが
その山などの大まかな形はそのままであろうと思うと、その当時の人々が夜と昼との明かりの中で自然の音と色に囲まれながら
どんな暮らしをしながら何の会話をしていたのだろう?そんな想像をしてしまいます。








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by furusatodiscovery | 2015-04-14 00:25 | 長野
鞆の浦。旅先で感じた事。
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鞆の浦。
この地は歴史が非常に多く語られていて、現)沼名前神社が合祀以前の渡守神社の創建は仲哀天皇の時代の神功皇后が西国に向かう際に立ち寄ったと際に社が無い事を知って、斎場を設け、海路の安全を祈願したのが始まりと言われていまして
このあたりの時代(仲哀天皇)の事はかなり神話めいて居る事も多いので何とも言えないのではありますが、後には万葉集の歌にも登場してきたり(700年代)、「室町幕府」の始まりは足利尊氏が天皇から院宣を受け取った事からで、その地が鞆の浦で15代将軍足利義昭が滅ぶのもこの地と「足利は鞆に興り、鞆に滅ぶ」と言った具合で、まぁ歴史に事欠かないようです。

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僕としては歴史はアマテラスからとは思わないので、その前はどうなのだろう?と探すのですが、弥生時代にはすでに集落があったようだとは伝えられるものの、その後の歴史が華やかだからか、あまりそちらの情報は無いようです。
ちなみに縄文の土器なども出土はしているのですよね。
何となく古地図なんかも探してみたり、縄文海進などの時代はどうなのかな?と思ったり少し見てみたのですが切り立った土地柄らしく、大きく地形は変化しないようです。もちろん今の港は縄文時代には海ですが・・。

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この鞆の歴史はチラッとググればいくらでも出て来るので
僕は三日でしたが自分の足で歩いた感想というか歴史の雰囲気を感じた事などを書いてみたいです。
1人で出張に出かけるとご飯は夜1人でホテルの外に食べに行きます。
6時頃にお土産物屋さんで「このあたりでご飯を食べたり、お酒を飲めるお店はどこでしょう?」と尋ねると「そういうお店はほとんど無いけど、一軒だけあるよ、でも夜9時までだな。あとは真っ暗だよ。」と。。
こんなに観光地のような雰囲気なのに9時には真っ暗になると言います。
本当かな?と思ったのですがまさに日が落ちらグッと暗くなる鞆の夜です。
お店自体はとてもいいお店で大皿から、あれこれと言っておかずを注文してお酒も飲めました。でも、やっぱり9時くらいで閉めると言われました。
どうやら後は皆家飲みか寝るのか?漁師の街というところなのでしょうか?朝が早いからなのでしょうか?
でも、そんなところにも都会とは違った時間の流れを感じるようで、何か悪くは無いのですよね。お店を出てると、そこは県道47号、唯一この集落を通り抜ける車道。道幅は車一台。すれ違いは困難。これが例の一時期全国ニュースを賑わした道路です。
車文化は田舎に行けば行く程必須、であるのにこの狭さは致命的。不便とは何か?ですね。

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仕事で出たのは上の方に書いた神社での挙式と
島でのバーベキューパーティー披露宴でした。
島へはお父さんが舟で連れて行ってくれます。
その際にお父さんが教えてくれました。「あの島はな美人が多いんだ。どうしてっかて言うとな、あの島は元は海賊の島でな、お宝は金銀ばかりじゃ無くて美人もだったんだよ。だから美人が多い島なんだ。」
え!?「まじっすか?!」思わず寄って行きましょうよ。。と言いたくなったけれど、そんな分けにはいきません。
そうか瀬戸内は数えきれない程の島があるし、波は小さいし、海の文化は色々あって当然だよなぁ。。と。
ほんとかどうかを確かめもせず、変に信じたのでした。








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by furusatodiscovery | 2015-04-11 22:06 | 広島
青山通り表参道交差点
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表参道。
昨日に引き続き、お洒落スポット。
ここの歴史はあまりにも新しいのです。
表参道とはどこの参道かと言えば明治神宮の参道となります。
長い長い参道の両脇には30年以上も前から色々なお店が出来ては無くなりを続け、それでもいつの年代もお洒落スポットとして、その賑わいは衰える事がありません。
考えてみれば不思議なもので神社の参道が若者のお洒落スポットなのです。
とは、言っても表参道を神社の参道だと思って歩いている人はほとんど居ないのではありますが。。
表参道がいつ出来たかと言えば大正8年、明治神宮への参道として整備されました。翌年には並木が植樹され、今の原型ができたか?と思いきや、古い絵などを見ると、まさに参道。当時の天皇の力を思い知る程の大きな参道を見るばかりで、今のようなお店が建ち並ぶ姿は想像もできないものです。
明治神宮そのものが大正になってから作られたものなので表参道が出来たのが大正であるというのは当然の話なのですが、その前はというと青山家の下屋敷であったり、松平家の屋敷があったりと武家屋敷などが並ぶ地域で目黒辺りは田んぼや畑ばかりだったと考えれば、青山は家が元々多いところと言えるかも知れません。
ちなみに今の表参道を青山から下りると明治通りへ出るのですが、明治通りが出来きたのはとても最近のようで100年前でも存在しておらず、今のキディーランドの隣にある遊歩道の下になっている川から先は1600年代は田んぼと畑、明治になって鉄道が敷かれても、まだノンビリとした風景が広がっていたようです。
江戸は末期になると世界でも有数の人口を誇る都市で50万人以上が登録され登録されていない武家人口を含めると推計では100万人を超えていたと言われているのですが、それでも今より遥かに少ないわけですね。
それに町人達の多くは下町の方で暮らしていたと思われますから、こちら山の手は少し違う感じだったのでしょう。

こうして表参道を通して明治、大正という激動の時代を眺めながら江戸時代に思いを馳せると
あの、のんびりとした江戸の時代に、この街を歩いてみたいなと思ったりします。








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by furusatodiscovery | 2015-04-10 23:10 | 東京
銀座はいつから銀座なの?
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銀座と言えば、誰もが知っている日本有数の商業地域です。
高級なお店が並び、東京に数ある繁華街でも、銀座のそれは他とは違う雰囲気を街全体が醸し出しているように感じます。
では、銀座とは元々はどんな場所かと言えば
徳川家康が江戸城に入った頃はまだ江戸前島という砂洲だったのです。その先端あたりが今の銀座の場所となるようです。
幕府はその砂洲と江戸入江と言われた今の日比谷あたりの海を埋め立てる事業を始めました。
そこに職人達をおき、生産物を管理するという計画だったようです。
入江と砂洲の埋め立ては神田の山を削った土で33年の月日をかけたとか・・ずっと運んでたんですね。
そして出来上がった埋め立て地に銀を鋳造する職人を京都などから呼び寄せたました。
銀はとても価値のある金属で貨幣としても使われていました。それを作る職人を一カ所に集めて貨幣の掌握にでたというわけです。

ただ、どの時代もそうですが生きている庶民と権力の上にある人達の思惑は別の次元で動いている事が多く
そんな政治的な話とは無関係に、京都からやって来た職人達の出で立ちは江戸の人々を魅了したようです。
要するに最先端の(京都の銀職人の)ファッションが流行したわけです。
金銀を扱う、そしてファッション。すでにこの時代に今の銀座のあり方が見えて来るようです。

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明治に入り銀座はレンガの建物に変わります。
それは火事による焼失が原因で燃えない都市という目標の為にそうなったということです。
ただ、それは明治維新という政治的な話が大きく関わっていたのだろうな、と思います。
西洋化、文明開化などの象徴としては、ある意味ちょうど良かったと言うか・・。
そしてレンガ作りになった建物は家の値段が高価になって今まで居た人達で住めなくなった人達も多かったようです。代わりに商人達が入って来ましたと。。

400年前は老月村の人々が漁村として居たところに幕府の命令で自ら埋め立てをして・・そう考えると、月日が流れれば今の形はずいぶん変わる。
そういう事でしょうか。
ま、東京湾周辺は埋め立て地ですからね。








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by furusatodiscovery | 2015-04-09 22:21 | 東京
稲敷より成田に嫁ぐ
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今回このブログを始めて、改めて稲敷という地を調べてみました。
すごく神社の多い土地であるという事が分かりました。
大杉神社という名前の神社のホームページを見ると律令制の前から信仰のある神社とあり
面白いなと思って色々と調べると
やはり鹿島神宮や香取神宮の事などが出てきます。
この地域においては鹿島や香取の両神宮は大きな存在だったのだなと思います。
それは、この地域が海と川と陸地とで分かれる地域だったからなのだろうと想像します。
前々回の記事でも書いたように利根川は昔は犬吠埼に向けては流れていなかったのですが
それでも天竜川などの水が抱負に流れていた事に変わりは無く
また2000年も前であるならば今よりもはるかに海は陸地に上がっていたでしょう。
それは霞ヶ浦などで分かる事です。
そして、その豊富な水の畔にというか崎に大杉神社や鹿島神宮、香取神宮があったのですね。
豊富な資源と自然への畏怖はその地に色々な思いを抱かせたのでしょうね。

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話は突然、明治になるのですが
稲敷郡は明治32年(1899年)に千葉県から茨城県に編入されたのですよね。
それは利根川の治水工事の負担を茨城県にもしてもらうための策だったようです。
利根川の恩恵を受けられる、受けられないの間ですったもんだがあった挙げ句の策みたいですね。
しかし、そう考えると僕らは今、都道府県の境は完全に決められたもので動くものでは無いと思っているのですが、わずか120年前にはそうして動いているわけで、その前には廃藩置県があったりするし、日本に朝廷や幕府などの政治が現れてからは何度も領地は変わっているので、今の境が絶対だと言う事は無いのでしょうね。


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この写真の車が走るあたりは時代が時代ならば川、もしくは海の中です。
そして舟で稲敷から成田に嫁入りをしたのでしょうね。
今は自動車で向かいます。
でも、思いは今も昔も共通するものがあったりしているかな?と思ったりしたのは
近所のおばさま達が嫁入りに駆けつけて涙を流していたのを見たからでしょうか。








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by furusatodiscovery | 2015-04-07 21:54 | 茨城
実は城下町?のはずだった千葉県松尾町
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ここは千葉県の山武市にある松尾町という場所です。
最近までは市町村単位では松尾町でした。
例の平成の大合併で松尾町は山武町、成東町、蓮沼村とくっついて山武市となりました。
ただ、松尾町の松尾という地名は山武より遥かに旧い地名です。
僕の調べた古地図では約千年前の古地図にもその名前が記されています。
山武郡という地名が出来たのは明治も30年の話で山辺郡と武射郡が合併されて出来たので本当につい最近の話となります。




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松尾という場所は九十九里平野の際を中心としている町なので、それこそ旧石器時代から人が住み
6000年程前から海が引いて行き九十九里平野が出来上がるのを長い年月見ていた土地とも言えるわけです。
このあたりは数々の古墳や土器も見付かっているのですが
今回はそこでは無く、写真がせっかく松尾駅前なので松尾城の話としていこうと思います。




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松尾城はなんと明治2年の築城でした。江戸時代が終わってからの築城というのは意外な感じがします。
ただ、考えてみれば人々の営みは年号によって支配されるのでは無いのですよね。
年号が代わり江戸幕府が大政奉還をしたからと言って突然何もかもが変化するというのは現代でも考え辛く、なので明治維新のあの頃ならば当然、今までとこれからの移り変わりは、時間があったと思います。
少し細かく時代の背景を言うならば
版籍奉還で遠州掛川の大名太田資美がやってきて稜堡式という五稜郭と同じ西洋風の城を建て始めた。
という事のようです。
ただ明治七年には廃藩置県を受けて築城を中止したという事で完成を見ない幻の城となったのですね。
ちなみに太田資美は江戸城も築城した太田道灌の子孫でその彼がどんな城を建てたのか、完成も見たかったような。
まぁ、このあたりの土地では江戸時代には、それなりに繁盛した地域もあったようなのですが
明治になり政府という形でどんどんと西洋化が進み
そして、戦後はいっそうの中央に集まる仕組みが出来上がったようで
以前の繁栄は嘘のようになっています。
松尾という地域は、お城を建てていた時には侍屋敷が並び、一瞬の城下町的雰囲気があったのかも知れませんね。








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by furusatodiscovery | 2015-04-06 21:59 | 千葉
水郷の町佐原を歩く
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千葉県にある佐原市は水郷の町として知られています。
その街並は昔ながらの風情を残し、今ではテレビの撮影や雑誌の撮影等でも使われる事があります。
この水郷佐原として発展したのは江戸時代からで、もともとは江戸湾に流れていた利根川を徳川家康の命により今の銚子に向けて東遷をした事から生まれたものでした。
利根川や渡良瀬川が江戸湾に注ぎ、凄い洪水が起きたという事や舟を使った流通の事など様々に理由があったようですが、利根川の姿を変えてしまうというのは凄過ぎます。。
しかし、そのおかげで佐原は大きく発展しました。
今では文化財の指定を受けた家や店が並ぶ「風情」という言葉が似合う街ですが、当時はとても賑わっていたのでしょう。
文化財の指定と言えば、住んでいる家を文化財に指定されると有り難いようで実はとても困るという話もあります。
なぜなら、勝手に新しい家に建て替えるなどは出来ないからです。
旧いものを大事にするのは良い事なのですが、時代が流れ昔とは違う建材で家を作り補修するようになった現代では、当時の状態を維持するには大変なお金と努力が必要になるようです。


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佐原の歴史は当然江戸時代から始まったわけではありません。
元々人が住んでいました。
いつからと言えば旧石器時代からです。
このあたり数千年前は海というか川というかの広大な入江が入り組んでいた場所であり
縄文海進から少しずつ海が引いて出来た土地ではあるものの
少し高い場所となれば元々陸地のところも多く、そうなると海の幸も川の幸も山の幸も獲れる良い場所でもあったわけですね。
この近くには香取神宮という古い神社もあって、そこも元々人が居た場所なのでしょう。
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by furusatodiscovery | 2015-04-05 21:59 | 千葉
新宿という街から始まった結婚式
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朝とても早い時間からの仕度でした。
新郎新婦が新居とされるマンションで仕度が始まります。
指定していただいた階まで上がると朝日に映える東京都新宿区の住宅街が見えました。
新宿が宿場町として栄えるようになったのは江戸時代の前期のようですね。
当然ながらその当時は旅は自分の足で進む事が多いので江戸から甲州へ向かうと行っても
今と比較をすれば大した距離を進んでいないのに一日が終わるわけで
江戸から出発すると最初の宿場町は高井戸でそこまで行く前に少し休むところが欲しい
そこで当初は休憩所という形で現在の新宿辺りの町屋を利用するようになったと。
新宿という街が始まったのは、もう400年近くの歴史があるという事になりますね。
ただ、街と言っても想像するに今のような繁華街の様子などある分けは無く
少し離れれば緑豊かな風景だった事は容易に想像がつきます。
昔の絵などを見ても道に対して家屋が並ぶという程度の感じが見て取れます。
およそ、400年の時を経てこのような大都会となったのですね。
とは言え今のような大歓楽街になる兆しが見えたのは明治維新以降で関東大震災がきっかけだという事です。

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マンションの外廊下を進む白無垢姿の花嫁です。
まさに現代の風景とも言えますね。

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挙式は北区の七社神社で行われました。
七社神社の由来は江戸時代の火事で分からなくなってしまったそうです。
そこで勝手な僕の考察なのですが
古くからそこにある神社というのは元々が何らかの神様を祭っていた事が多いように思います。
古くからというのは相当に古く縄文まで遡るような・・
この七社神社は縄文海進の時代では旧東京湾のほとりにある状態ですぐ裏には大河のように入江があったと思われ、そんな場所はこの世とあの世の境目のようにされ神との交信をする場所とされても不思議では無いかな。。なんて。

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北区の歴史も少々。
やはり東国の人口が増え交通網が発達してきたのも江戸時代から。
それまではあまり文献にすら載らない場所のように見えます。
やはり人の数が今よりも圧倒的に少ないのですから土地にもそれは余裕があったと言う事でしょう。
江戸時代に入り王子村に日光御成街道が通り、それから王子村は江戸市街と直結するようになったとか。
要するに北区辺りは江戸市街では無いわけです。
きっと奇麗な田園や雑木林などがある素敵な景色だったのでは無いでしょうか。









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by furusatodiscovery | 2015-04-04 17:31 | 東京