縁のある地で挙げた結婚式の写真とその地の歴史を見ながら記事を書いてみたいと思っています。勝手な歴史考察を含めてなので間違いがあるかも知れないので、まるのまま信じないでね。本サイトはプロフィールページにリンクがあります。
by furusatodiscovery
タグ
画像一覧
メモ帳
ブログランキングです。よろしければクリックお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村



結婚式・ブライダル ブログランキングへ
お気に入りブログ
記憶に残った1枚|結婚式...
東に向かえば海がある
以前の記事
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
最新の記事
幕末の伊豆で起きたロシア人と..
at 2015-10-30 21:45
赤坂という土地を見ていて江戸..
at 2015-09-29 20:05
海の幸と航海に彩られた沖縄の..
at 2015-09-10 22:44
桃源郷かと見まごう場所で福島..
at 2015-08-20 13:48
江ノ島は陸から離れたから良か..
at 2015-06-21 17:49
記事ランキング
カテゴリ
全体
福島
茨城
埼玉
東京
千葉
神奈川
静岡
長野
広島
沖縄
未分類
最新のコメント
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
ブログパーツ
カテゴリ:茨城( 2 )
2千年以上前のこの地に立ってみたい。鹿島神宮。
c0365516_15471891.jpg


鹿島神宮
ここには色々な仮説や神話がたくさんあります。
一つは高天原です。実際に神社の境内からおよそ1キロ東にこの地名があります。
そして、その他には鹿島神宮の本源地は現在の鹿島神宮から北に2~3キロくらい行った場所にある、坂戸神社か沼尾神社であるという話や、鹿島神宮跡宮という神社が元々あった神社だという話もあるようです。
ただ、それら全てが仮説であって本当の事を知ることは出来ない状況です。
鹿島神宮のサイトには創建は神武天皇の時とありますが・・。ほんとにこの話はどこに行っても神武天皇なので、神話の世界ですね。

c0365516_15474327.jpg


昔の鹿島の地は今とはまるで違う内海と外海に挟まれた細長い半島でした。
海が最も海進してきたのが6千年前と言われていますが、それから徐々に海は引いて行った、とは言うものの2千年前はまだまだ大きな内海が存在し、そこにはたくさんの人々が生活をしていました。
当時の海岸線には貝塚が点在し続けます。地図上に貝塚を置けば当時の海岸線が分かると言われるほどです。
縄文海進がまさに最盛期の頃はきっとこの内海は海水が濃かったと思うのですが、どうやら後に残される風土記などには鯉や鮒の文字も出て来て海水と淡水が混ざった場所も入り江によっては増えて来たようです。
そしてこの香取海の周辺では丸木舟なども多数出土しています。その数は日本全体のおよそ4割にあたるそうです。
内海は外海に比べ波も小さく、人が多く住んでいるとは言え現代と比較したら比べ物にならないくらいの少数です。きっとそれは良好な漁場であり、広大な内海を渡る交易は盛んだったのでは無いでしょうか?

c0365516_1548325.jpg


縄文の人々は自然崇拝主義だと言われています。
大いなる恵みと大きな災いを両方に持つものが自然であるとしていた分けで、人もその一部であると考えていたのだと思います。
そして、生と死の不思議も目の当たりにしていたのですよね。少なくとも現代の我々のような生活よりも、生と死、始まりと終わりが目の前に繰り広げられていたのですね。
そうすると、生まれる前と死んだ後の世界は他の世界と考えても不思議では無く、その境や入り口を聖地として崇めたとしても不思議では無いと感じます。
豊漁の海、災いをもたらす海。海からの恵みで生き、海に沈み死ぬ命も見る。ここに神を感じるのは自然な事でしょうね。
だから海と台地の境目にはよく神様を祀っていたのでは無いでしょうか?きっとこの海の周辺にもたくさんの縄文の神様が祀られていたことだと思います。
そんな神様の一つが鹿島神宮の元になった神様なのでは無いかな?と思うのです。それは香取海を挟んだ向かいにある香取神宮もそうだと思います。

想像をしてみれば縄文の時代、陸路を進む手段は徒歩であり、舟は櫂を漕ぐか帆に受ける風で進むしか無く、(帆があったかどうかは微妙ではありますが、帆が無くて、どうやって外洋を進んだのかな?そう思うのですよね。)その距離と時間は今の感覚では無いのですね。そう思うと、今ならば少し離れた所と感じる場所も、それなりに離れた所になり、ある集落から集落へ移動する間の道のりは手つかずの自然の真っ只中、大木の森であったはずです。
想像するだけでも凄い世界ですね。自分の集落を出れば、そこは大木の森、あのナウシカの腐海の森なのです(腐ってないです)。
やはり集落ごとに何らかの神様があるのが自然でしょうね。

c0365516_15482945.jpg


なぜ、ここまで想像の翼を広げてしまうかというと、それは今に残す文献が無いからですね。
何故無いのでしょうね?
最も古いと言われる古事記や日本書紀ですら写ししか無いのですよね。
ただ、写しであるならば、その他の文章も写しがあってもおかしく無いと思うのだけれど、今の所は無いのです・・。

二千数百年前、縄文から弥生へ変化していくあの時代は稲作が列島を変えたと言われるわけですが、当然大陸から人々がやってきているわけです。
大陸での発掘ではすでに弥生時代に入る数百年前に漢字の文章が紙に書かれている事が確認されています。
だから遅くとも、大陸から人々がこの列島に来た時には、列島に同時に漢字は存在しているという事になると思うのです。何故なら列島に来た人々が誰一人として文字を知らない文盲だったとは思えないからです。

また想像ではありますが、縄文人には縄文人の言語や意思の疎通方法があっただろうなぁと思うのです。
あれだけの大きな建物を建てる事もできて他の集落との交流もあり、黒曜石などは遥か数百キロ先まで渡って行くような交易が出来て、尚かつ音楽を奏でる事もできて、文字は無い?。
集落にはきっと長老のような人が居たでしょう。その長老から違う集落の長老へ伝聞するのは口伝で・・か?変ですよね。

何やら、鹿島神宮からずいぶんと話は飛んでしまいました。
鹿島神宮や香取神宮について調べていると、それはどうしても香取海の文化を想像せざる得ないのです。
美しかったのだろうなぁと。
できるなら、その時代に行って巨木が林立する原始の森と水平線が見えるような広大な内海、そこに住む動物達と人、真っ暗な夜に美しく光る星達を見てみたいなぁと思うのですよね。。










[PR]
by furusatodiscovery | 2015-06-20 15:55 | 茨城
稲敷より成田に嫁ぐ
c0365516_2059158.jpg

今回このブログを始めて、改めて稲敷という地を調べてみました。
すごく神社の多い土地であるという事が分かりました。
大杉神社という名前の神社のホームページを見ると律令制の前から信仰のある神社とあり
面白いなと思って色々と調べると
やはり鹿島神宮や香取神宮の事などが出てきます。
この地域においては鹿島や香取の両神宮は大きな存在だったのだなと思います。
それは、この地域が海と川と陸地とで分かれる地域だったからなのだろうと想像します。
前々回の記事でも書いたように利根川は昔は犬吠埼に向けては流れていなかったのですが
それでも天竜川などの水が抱負に流れていた事に変わりは無く
また2000年も前であるならば今よりもはるかに海は陸地に上がっていたでしょう。
それは霞ヶ浦などで分かる事です。
そして、その豊富な水の畔にというか崎に大杉神社や鹿島神宮、香取神宮があったのですね。
豊富な資源と自然への畏怖はその地に色々な思いを抱かせたのでしょうね。

c0365516_20591916.jpg

話は突然、明治になるのですが
稲敷郡は明治32年(1899年)に千葉県から茨城県に編入されたのですよね。
それは利根川の治水工事の負担を茨城県にもしてもらうための策だったようです。
利根川の恩恵を受けられる、受けられないの間ですったもんだがあった挙げ句の策みたいですね。
しかし、そう考えると僕らは今、都道府県の境は完全に決められたもので動くものでは無いと思っているのですが、わずか120年前にはそうして動いているわけで、その前には廃藩置県があったりするし、日本に朝廷や幕府などの政治が現れてからは何度も領地は変わっているので、今の境が絶対だと言う事は無いのでしょうね。


c0365516_2103665.jpg

この写真の車が走るあたりは時代が時代ならば川、もしくは海の中です。
そして舟で稲敷から成田に嫁入りをしたのでしょうね。
今は自動車で向かいます。
でも、思いは今も昔も共通するものがあったりしているかな?と思ったりしたのは
近所のおばさま達が嫁入りに駆けつけて涙を流していたのを見たからでしょうか。








[PR]
by furusatodiscovery | 2015-04-07 21:54 | 茨城