縁のある地で挙げた結婚式の写真とその地の歴史を見ながら記事を書いてみたいと思っています。勝手な歴史考察を含めてなので間違いがあるかも知れないので、まるのまま信じないでね。本サイトはプロフィールページにリンクがあります。
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カテゴリ:東京( 5 )
赤坂という土地を見ていて江戸の末期を考えてしまった。
赤坂

現代の東京でこの街の印象は「高級○○」(笑
車を停めても何か食べても、とにかく高いという印象です。
さてこの赤坂氷川神社ですが、由来としては10世紀、11世紀頃から降雨を願う神様として祭事があったと言われているようです。
社殿は徳川の八代将軍、徳川吉宗が造営したという事です。
それから忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の夫人の瑤泉院の実家、浅野土佐守の下屋敷だったりしています。

この赤坂氷川神社を調べると今井城というお城の名前が出てきます。元はここはお城だったいう言い伝えがあるようです。主は木曾義仲の四天王の一人で今井兼平だったと言うのですが、色々と調べている方の話を読むと、かなり怪しい話だという事のようで伝説の扱いになっているみたいですね。
赤坂は、以前は人継村という場所だったようで、開拓は1567年、家康が江戸に入る前の事です。その頃は人家など無い山畑だったと言いますから、そこから考えると前述した今井城はやはり無さそうですね・・。
それにしても、昔の赤坂は人家の無い山畑だったと言われても現代の我々には想像できないですね。

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江戸って言うとどうしても江戸幕府で徳川家康なんですけど、当然その前から人が住んでいるわけです。
江戸と言う名前を名乗った最初の人は江戸太郎という12世紀の人だそうです。その江戸太郎という名前は江戸という名の地に住むようになったから改名して江戸太郎にしたという事なので、たぶん千年以上前から江戸という地名があったのですね。
ちなみに江戸の江は川とか入り江で、戸は入り口を現す言葉だそうなので「川の入り口」もしくは「入り江の入り口」という事なのだそうです。千年以上前の関東平野は今よりも遥かに湿潤な土地だったろうと推測できますし、家康の利根川東遷事業が始まるずっと以前の事ですから、まだまだ入り組んだ岬のような状態があったのでしょう。
水害などの苦労はずいぶんあったと思いますが、その分その土地特有の自然の恩恵はたくさん受けていたのだろうなと思います。江戸湾なんて良い漁場だったのだろうなぁと。
現在赤坂と言われている場所も縄文の時代は水に囲まれた半島のような場所です。赤坂氷川神社の辺りがちょうど半島になって、溜池などの辺りは完全に水の中ですね。少しずつ海が引いていったとは言え、千年前程度ならば、その名残りはまだまだ感じられた事でしょう。
今でも氷川神社の周辺を歩くとけっこう急な坂が多いので、その事を知るとなるほどな、と思えます。

江戸時代に入ると赤坂は人継村を一木と書くように変わったそうで、その頃もまだ赤坂では無いのですね。赤坂の文字が初めて地図に載るのは家康が江戸に入ってから半世紀以上が経過した1657年の地図だそうで、その頃になると赤坂には松平などの武家屋敷が出来ていてます。溜池は水瓶としても使われたらしく、大きな池のような感じですね。江戸末期の広重の絵にも溜池が出てきますが、当然今とはまるで違った景色で、水をいっぱい溜めた池があり山王台の日枝神社も森の中にあるようです。今は外堀通りがあってそこからエスカレーターですね。(苦笑

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天下泰平の江戸時代は江戸の街を世界でも有数な巨大都市にしていきます。
江戸末期に訪れた外国人が芝公園近くの愛宕山から江戸の街をパノラマのようにして写真を撮っていますが、(こちらに江戸のパノラマ写真があります)それはそれは凄い景色です。ただ、そうは言っても江戸時代の都市の広がりは現在のそれとは比べ物にならないくらいに小さいです。ざっくりとその広さを言えば江戸末期ですら山の手の都市部は明治通りの内側だけですね。それにある本を読んだところでは、実に緑と水の多い都市だと江戸を訪れた外国人が言っています。それは見事に都市と田園が入り交じったものだったと。
わずか150年前なのに写真を見ても、話を聞いても、まるで知らない国のようです。

そして、明治という時代に入ると、赤坂に二百年以上も建っていた大名屋敷や旗本屋敷は姿を消し、代わりに日本軍の施設が立ち並ぶようになります。
名前も江戸から東京へと変わります。これは東の京ですね、天皇が居る所を京とする。結局のところ「御一新」をして近代化を進めるためには天皇の居場所を移すしか無いと思ったようですね。面白いなと思うのは、やはり天皇を味方に付けるとでも言うのか、その力を必要としているみたいなところですね。すでに形だけの王様のようになっているはずであるのに、やはり天皇は重要だとしている分けです。

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東京奠都(とうきょうてんと)という、かなり近代日本の歴史の中でも重要な場面を見ていくと、不思議な事や面白い事が見えてきますね。
この一大事業は大久保利通が中心になってやるようなのですが、どうやら決定的な助言をした人が居て、それが前島密という人なのですね。
大久保利通への助言の中で彼はいくつから江戸に遷都する理由を述べているのですが、その中で、僕的に気になったものを上げみます。
一つ目は、江戸市民が今まで幕府のお膝元だったのに、いきなり都じゃ無くなると、江戸から人が離れてしまうというのです。
だけど、僕が想像するには「それは無いよね」という感じです。そりゃ旗本とかやってた人にとっては幕府が無くなると困る人も居たでしょうけれど、その他の人にとっては江戸の街が必要なのであって幕府が必要なのでは無いのだと思うのですよね。
幕府も江戸の文化が作られる過程に関わったりはすると思うのですが、ただ、僕が好きな江戸の文化は町人達の生き生きとした文化で、それは風俗とも言えるような世界、それが芸術的ですらあると言うように高められた。そして、たぶんそれを江戸っ子達も好きだったのだと思うし、ある種の誇りもあったのだろうなと思うのですよ。
だから幕府という何やら手の届かない世界の人達がそこに存在するという認識は当然あっても、それが生活の全てでは無いのだと思いますね。どこか大きな政治と生活が分離しているような感じがします。きっと、その感じって今の日本の人にも共通している感覚だと思うのですよね。
自分達市民が参加して幕府や政府などの政治を動かして日本を舵取りしている感覚は無いから、だから誰がやっても同じ事。そんな感覚で現代の日本も政治に対する無関心というのはあるのだと思うのだけれど、それは江戸時代なら尚更かな?と思うのです。
だから江戸の人達が大政奉還で幕府が消えて、その後どうなるだろう?と不安にはなったとしても、また都じゃなくなる事に、何だか景気の悪い話だねぇてな事もあるにしても、その後、平和な江戸が続けば、問題は全く無かったと思うんですけどね。
ただ、明治政府って何だかな?てな所が多々あるような気がしますから、統一政府として全国に与える影響から、たとえ首都が東京では無かったとしても江戸は江戸時代の活気を保てたかは解らないですけどね、怒濤の改革ですから。ただ、江戸が地方都市であるならば、今の東京のように昔を断ち切ったかのような街では無いと思えるのですが・・。

あと、もう一つ、前島密は蝦夷地開拓を言うのです。
要するに北海道の開拓ですね。これは必要な事だと。大まかな目的としては近代化の資源として木材や石炭などが必要だと。そしてロシアなどから日本を守るために未だに王化が進んでいない地を自分達の領土として確立し防衛に当たるという感じなのですね。
当時の北海道は松前藩があったものの北海道のほとんどはまだアイヌの人達の国と言っても良い状態です。
とは言ってもヤマトと敵対している分けでも無いのです。ただ幕府にはあまり関与されずに大自然の中で生きている人達が居るわけですね。
そこの開拓は必要だと言うわけです。もしかすると西洋で学んで来た植民学が影響していて、少しでも多くの領土を持つ事が重要だと信じていたのかな?とか想像はするのですが・・。
そうだとすると自分達が恐れた欧米列強の植民地政策に対して、忌み嫌う事はせずに学んだ(真似た)という事になるのでしょうか。
とにかく、この蝦夷地の開拓をするには江戸が良いと、大阪じゃ遠過ぎて目が届かんという分けですね。

まぁその他に江戸はすでに大都市ですし、当時の日本の都市としては大きな道もあったりで、都合が良いとか色々あるみたいですが
大久保利通としては、この前島密の助言を聞いて大阪遷都から東京遷都へ大きく変わったと言われています。
ただ、明治政府が前島密の案を採用した本音としては政府が資金難だった為に「江戸遷都は金がかからない」という事が大きかったという話もあるようです。

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僕は個人的には幕府が無くなったんなら都は京都に戻してもらって良かったかな、なんて思うのですが、結局は維新の志士達は、のんびり公卿の政治なんてつきあってられないと、まごまごしていると海外の力に日本が飲み込まれると、近代化(西洋化)しか無いと、それがこの国を守る事・・。夷狄からヤマトを守ること・・。都を江戸へ、東京遷都をと。

ただ、百五十年も経過した今だから、そんな事が言えるのかも知れませんよね。初めて見た蒸気機関や武器に驚かされて、隣の大陸ではアヘン戦争に破れた清国を見て、欧米の植民地政策が極東の島まで進んで来た状態で、特に米国は最後は軍事力を使ってでも、こじ開けるような雰囲気があったようにも感じますし、また西洋の人達は西洋の人達で自分達の文明を広げる事は良い事だと思っている節も感じられ、その勢いを、のらりくらりと時間をかけて、かわしていきながら、自分達の未来を探るような、そんな器量や戦術や先見性を持った人は維新の志士達や幕府や朝廷の中には居なかっただろうなぁと想像します。世界的な歴史が西洋文明の全盛期に進む、その時代ですから、仕方が無いと言えば仕方が無いのではありますが、もったいないなぁと思ったりもするのです。
こういう事って、もしかすると、いかに自分達が生きている場所や文化に大切さを感じているか?にもよるのかな?とふと思います。
この時代は重要な事は何か?という問いかけの答えは「国」を守る事しか無かったのでしょうね。

歴史のもしもではあるけれど、もしも、江戸幕府の終焉が本当の一般市民が望んだ国家体制の変化だったならば、江戸は江戸のまま、大きな下町、江戸湾の街だったのでは無いかなと、そして現在はどんな街になっていただろう。そう想像してしまいます。
ただ、世界的な歴史を見ると、市民が革命を起こして変化をした国で結果的に良い国になった国はあるのかと言えば・・また王様や政治家が作った国で結果的に良い国があるのかと言えば・・さてさて、どうしたものか?ですね。





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by furusatodiscovery | 2015-09-29 20:05 | 東京
根津神社は元々今の場所では無かったのね。。
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根津神社
公式サイトによると千九百年余の昔に日本武尊が千駄木の地に創祀したと書いてあります。
その後太田道灌が社殿を奉建しているとあります。
そして、江戸時代に五代将軍徳川綱吉は世継ぎが定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座したと。

これを今風に言うと2世紀頃に日本武尊が千駄木に初めて神様を祭りましたと
そして15世紀頃に太田道灌が社殿を建てました。
太田道灌と言えば江戸城の築城で有名な人ですね。
その後、17世紀の後半に5代目の将軍となった徳川綱吉が社殿を奉建して千駄木から現在の場所に移したという事です。
徳川綱吉というと「生類憐れみの令」が有名です。なんだか悪法と言われているこの「生類憐れみの令」ばかりが目立ちますが、とても学問に対して興味を持っている方のようで、将軍時代の前半は徳を重んずる政治をして、戦国時代の暗い雰囲気を排除したとも言われているようです。

言い伝えと史実が混ざっているとでも言うところなのでしょうか?でも、こういう形が日本の歴史にはとても多いですね。
特に7世紀よりも前になってくると、どこまでが本当の事なのか、あれ?と思う事は往々にしてあるようです。


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ところで現在の根津神社が建つ前の旧社地とはどこなのでしょう?
千駄木の団子坂北という事のようなのですが・・・。
何にせよ、団子坂の下である事は無いと思われます。
というのは、今の不忍通りは江戸時代は川だったはずですし、団子坂の北の方で下へ(東側)降りれば畑が多くなるようなので
やはり高台に建っていたのでは無いかと思います。
神社が建っている場所は元々神社として建った場所と民間信仰のあった場所が神社になったところと両方あると思います。
旧社地はきっと後者の民間信仰があった場所のような気がするのは気のせいでしょうか?
そこは遥か昔は東京湾が入り組む入り江の近くであるわけで、そんな景色に思いを馳せても、今はその周辺は家が密集する住宅地であったりするわけで、今その地に立っても何も感じられる場所では無いのかも知れません。
いや、もしかすると以外といい場所であったりするのかな?








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by furusatodiscovery | 2015-06-01 14:45 | 東京
青山通り表参道交差点
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表参道。
昨日に引き続き、お洒落スポット。
ここの歴史はあまりにも新しいのです。
表参道とはどこの参道かと言えば明治神宮の参道となります。
長い長い参道の両脇には30年以上も前から色々なお店が出来ては無くなりを続け、それでもいつの年代もお洒落スポットとして、その賑わいは衰える事がありません。
考えてみれば不思議なもので神社の参道が若者のお洒落スポットなのです。
とは、言っても表参道を神社の参道だと思って歩いている人はほとんど居ないのではありますが。。
表参道がいつ出来たかと言えば大正8年、明治神宮への参道として整備されました。翌年には並木が植樹され、今の原型ができたか?と思いきや、古い絵などを見ると、まさに参道。当時の天皇の力を思い知る程の大きな参道を見るばかりで、今のようなお店が建ち並ぶ姿は想像もできないものです。
明治神宮そのものが大正になってから作られたものなので表参道が出来たのが大正であるというのは当然の話なのですが、その前はというと青山家の下屋敷であったり、松平家の屋敷があったりと武家屋敷などが並ぶ地域で目黒辺りは田んぼや畑ばかりだったと考えれば、青山は家が元々多いところと言えるかも知れません。
ちなみに今の表参道を青山から下りると明治通りへ出るのですが、明治通りが出来きたのはとても最近のようで100年前でも存在しておらず、今のキディーランドの隣にある遊歩道の下になっている川から先は1600年代は田んぼと畑、明治になって鉄道が敷かれても、まだノンビリとした風景が広がっていたようです。
江戸は末期になると世界でも有数の人口を誇る都市で50万人以上が登録され登録されていない武家人口を含めると推計では100万人を超えていたと言われているのですが、それでも今より遥かに少ないわけですね。
それに町人達の多くは下町の方で暮らしていたと思われますから、こちら山の手は少し違う感じだったのでしょう。

こうして表参道を通して明治、大正という激動の時代を眺めながら江戸時代に思いを馳せると
あの、のんびりとした江戸の時代に、この街を歩いてみたいなと思ったりします。








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by furusatodiscovery | 2015-04-10 23:10 | 東京
銀座はいつから銀座なの?
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銀座と言えば、誰もが知っている日本有数の商業地域です。
高級なお店が並び、東京に数ある繁華街でも、銀座のそれは他とは違う雰囲気を街全体が醸し出しているように感じます。
では、銀座とは元々はどんな場所かと言えば
徳川家康が江戸城に入った頃はまだ江戸前島という砂洲だったのです。その先端あたりが今の銀座の場所となるようです。
幕府はその砂洲と江戸入江と言われた今の日比谷あたりの海を埋め立てる事業を始めました。
そこに職人達をおき、生産物を管理するという計画だったようです。
入江と砂洲の埋め立ては神田の山を削った土で33年の月日をかけたとか・・ずっと運んでたんですね。
そして出来上がった埋め立て地に銀を鋳造する職人を京都などから呼び寄せたました。
銀はとても価値のある金属で貨幣としても使われていました。それを作る職人を一カ所に集めて貨幣の掌握にでたというわけです。

ただ、どの時代もそうですが生きている庶民と権力の上にある人達の思惑は別の次元で動いている事が多く
そんな政治的な話とは無関係に、京都からやって来た職人達の出で立ちは江戸の人々を魅了したようです。
要するに最先端の(京都の銀職人の)ファッションが流行したわけです。
金銀を扱う、そしてファッション。すでにこの時代に今の銀座のあり方が見えて来るようです。

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明治に入り銀座はレンガの建物に変わります。
それは火事による焼失が原因で燃えない都市という目標の為にそうなったということです。
ただ、それは明治維新という政治的な話が大きく関わっていたのだろうな、と思います。
西洋化、文明開化などの象徴としては、ある意味ちょうど良かったと言うか・・。
そしてレンガ作りになった建物は家の値段が高価になって今まで居た人達で住めなくなった人達も多かったようです。代わりに商人達が入って来ましたと。。

400年前は老月村の人々が漁村として居たところに幕府の命令で自ら埋め立てをして・・そう考えると、月日が流れれば今の形はずいぶん変わる。
そういう事でしょうか。
ま、東京湾周辺は埋め立て地ですからね。








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by furusatodiscovery | 2015-04-09 22:21 | 東京
新宿という街から始まった結婚式
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朝とても早い時間からの仕度でした。
新郎新婦が新居とされるマンションで仕度が始まります。
指定していただいた階まで上がると朝日に映える東京都新宿区の住宅街が見えました。
新宿が宿場町として栄えるようになったのは江戸時代の前期のようですね。
当然ながらその当時は旅は自分の足で進む事が多いので江戸から甲州へ向かうと行っても
今と比較をすれば大した距離を進んでいないのに一日が終わるわけで
江戸から出発すると最初の宿場町は高井戸でそこまで行く前に少し休むところが欲しい
そこで当初は休憩所という形で現在の新宿辺りの町屋を利用するようになったと。
新宿という街が始まったのは、もう400年近くの歴史があるという事になりますね。
ただ、街と言っても想像するに今のような繁華街の様子などある分けは無く
少し離れれば緑豊かな風景だった事は容易に想像がつきます。
昔の絵などを見ても道に対して家屋が並ぶという程度の感じが見て取れます。
およそ、400年の時を経てこのような大都会となったのですね。
とは言え今のような大歓楽街になる兆しが見えたのは明治維新以降で関東大震災がきっかけだという事です。

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マンションの外廊下を進む白無垢姿の花嫁です。
まさに現代の風景とも言えますね。

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挙式は北区の七社神社で行われました。
七社神社の由来は江戸時代の火事で分からなくなってしまったそうです。
そこで勝手な僕の考察なのですが
古くからそこにある神社というのは元々が何らかの神様を祭っていた事が多いように思います。
古くからというのは相当に古く縄文まで遡るような・・
この七社神社は縄文海進の時代では旧東京湾のほとりにある状態ですぐ裏には大河のように入江があったと思われ、そんな場所はこの世とあの世の境目のようにされ神との交信をする場所とされても不思議では無いかな。。なんて。

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北区の歴史も少々。
やはり東国の人口が増え交通網が発達してきたのも江戸時代から。
それまではあまり文献にすら載らない場所のように見えます。
やはり人の数が今よりも圧倒的に少ないのですから土地にもそれは余裕があったと言う事でしょう。
江戸時代に入り王子村に日光御成街道が通り、それから王子村は江戸市街と直結するようになったとか。
要するに北区辺りは江戸市街では無いわけです。
きっと奇麗な田園や雑木林などがある素敵な景色だったのでは無いでしょうか。









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by furusatodiscovery | 2015-04-04 17:31 | 東京