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縁のある地で挙げた結婚式の写真とその地の歴史を見ながら記事を書いてみたいと思っています。勝手な歴史考察を含めてなので間違いがあるかも知れないので、まるのまま信じないでね。本サイトはプロフィールページにリンクがあります。
by furusatodiscovery
幕末の伊豆で起きたロシア人との交流は
伊豆の歴史は今回で二回目となります。
前回は伊豆半島が遠く1000キロの沖合にあった島から、ゆっくりと北上して列島に衝突し、それが半島になったという話でした。

今回はかなり新しい歴史について触れてみたいと思います。
江戸時代の末期に伊豆半島の下田は海外からやって来る船の玄関口となっていました。それは有名な話です。あの、ペリーも下田にやって来ています。

日本では鎖国という閉鎖的な言葉で、頭の固い幕府が海外の進んだ文明を取り入れようとせずに、いつまでもチャンバラをしていた、なんて印象が持たれているように思います。
ですが、海外から日本に訪れた人達の目線や表に出ている歴史上の人物では無い人達の目線に立って江戸時代、幕末などを見ていくと
果たして開国とは何だったのか?ともう一度考えてみたくなります。

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「逝きし世の面影」という本があります。この本は幕末の頃に日本を訪れた外国人が見た日本人を描いた本です。
その中で下田に立ち寄った人々が日本について持った感想が書かれています。

『十九世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点がどうであろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。時には辛辣に日本人を批判したオールコックさえ「日本人はいろいろな欠点を持っているとは言え、幸福できさくな、不満の無い国民であるように思われる」と書いている。ペリーは第二回遠征のさいに下田に立ち寄り「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。ペリーの四年後に下田に訪れたオズボーンは、街を壊滅させた大津波のあとにもかかわらず、再建された下田の住民の「誰もがいかなる人びとがそうありうるよりも、幸せで煩いから開放されているように見えた」』

また

『英国聖公会の香港主教ジョージ・スミスは1860年に来日した人で「一世紀前の日本のことを書いた著者の記述を読み、彼らの国民性への評価と、今日長崎の街でふつうに見受ける光景や住民の習慣・しきたりを較べてみると、この著者たちが観察の機会が限られていたため、住民の性格をよい方に誇張した画像を描き出したのか、それとも、今日の日本人がいくつかの重要な点で、百年あるいは二百年前に暮らしてた日本人から劣化してしまったのか、そのどちらかだという推論は避けがたい」と書いている点でもわかるように、幻想や読みこみなどには一切縁のない人物だったが、その彼ですら「西洋の本質的な自由なるものの恵みを享受せず、市民的宗教的自由の理論についてはほとんど知らぬとしても、日本人は毎日の生活が時の流れにのってなめらかに流れてゆくように何とか工夫をしているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない気楽さの潮に押し流されてゆくことに満足している」と認めざるをえなかった。』

今上げた部分でも下田では無いところもあるのですが
この本は本当に面白い本なので、ほんの一ページを開いただけで出てくる、外国人が見た日本人の感想を上げてみます。
・「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとして」出会わなかった。
・「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」
・「日本人ほどで愉快になりやすい人種はほとんどあるまい、良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように笑い始めたとなると、理由も無く笑い続けるのである」
・「話し合う時には冗談と笑いが興を添える、日本人は生まれつきそういう気質があるのである」
こんな話がこの本の中からはたくさん出てきます。
日本という文字を外して読んだら今の日本人が、これは日本人を描写した言葉なのだと解るでしょうか?
初めてこの本を読んだ時、僕はとても驚きました。そしてそれがわずか150年前の事だと知ると、何やら悲しさすら浮かんできました。

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伊豆の幕末と言えば下田になるのですが、実は隠れた舞台(自分的に)に戸田があります。
戸田にはプチャーチンというロシアの特使が、やはり日本の開国を求めてやって来てました。
当時の日本は最後の極東の島国として欧米の進出が強くなって来ていました。
また、ユーラシア大陸を東から臨む島であり、時代はそれまでの帆船から蒸気船に変化していく頃で、時間の短縮と共に寄港地での燃料の補給も必要など、日本という島国だけの利権では無い国際的な勢力争いの舞台としても欧米諸国としては開国を望んでいたようです。
しかしながら、日本国の政府である幕府はなかなか開国には応じずに長崎だけを特別な玄関として置き、その他の開港はのらりくらりとかわしていたのです。
そこに強気で攻めるペリーが戦艦四隻で首都江戸の鼻っ面に直接やってきます。いわゆる「黒船来航」です。
挙げ句に空砲までぶっ放し、全てがアメリカの戦略ではあったのですが、その高圧的な態度に見事にかかった幕府は二度目のペリー来航時に日米和親条約を結ぶ事となります。
ただ、その空砲の発射も予め日本側へ通告があったために、当初は江戸市民は大騒ぎとなったものの空砲だと解ると、その音がする度に花火のように喜んだとも伝えられているようです。さすが江戸。。

ロシアはと言えば日本とは隣国という事もあり、ペリー来航の100年以上も前から日本人の漂流民による日本語学校の開設などを行い、日本との通商に関して興味を持っていたようですね。
ただ、現在のように事はそれほど素早く進む時代でも無く、実際にロシアが日本に初めて特使を送り通商条約を結ぼうとしたのは1805年という事です。しかし幕府は一年も彼らを待たせた挙げ句に開国はできないという返事を持たせて帰らせたという事で、少々怒りを買ったようです。
そして時代は西洋の世界的な進出、おとなり清国でのアヘン戦争など、日本でいう幕末の時代に移っていきロシアは日本との通商を結ぶためにプチャーチンの派遣となるわけです。
ロシアとしては、領土の確定と貿易、最恵国待遇、領事館の設置などが望みであったようです。
貿易はとても重要な要素だったようですがそれと共に西側イギリスの中国進出、東側から押し寄せてくるアメリカの存在も大きく意識していたようで、国際情勢のそれぞれの思惑の中で日本という国も知らぬ間にコマの一つとされていたのでしょうね。
当初プチャーチンもペリーと一緒に江戸湾に入る予定だったそうです。ただ、途中でロシア皇帝より通達を受けて、当時の日本では唯一の外国との玄関口、長崎に出向く事になります。ロシアの皇帝からは日本の国法に沿って交渉をするようにという事だったのですね。
そして長崎でプチャーチンは運命の人とでも言うのか日本の勘定奉行の一人で日本側全権の一人川路聖謨(かわじ としあきら)と出会うわけです。
長崎でのロシア人と日本人の交流は、お互いに探り合いをしながら少しずつ尊敬の念を抱いていったようです。
それは後にプチャーチンと同行したゴンチャローフという作家が書いた「日本渡航紀」や川路が残している文章からも伺い知る事ができます。
その内容はアッという間に友人関係になり、みたいな劇的なものでは無く、ロシア人からすれば、どこか上から見た態度でもあり、日本人からすれば、得体の知れぬ詐欺師でも見ているようなところもあって、実にリアルな話だなと思うわけです。
このプチャーチンの一行がやって来た時の様子はいろいろと書物などになっているようですが、その中で川路全権が言った言葉が目につきます。

『「外国から魚や、ガラスや、米などのような必需品を持ってきてもらうのは結構なことです。しかし昨日ちょうだいしたような時計を見ると手前どもは目もくら んでしまうので、あんなのを外国から持ってくるようになったら、日本人は何もかも渡して素っ裸になってしまうでしょう」
「しかし、ただいま申し上げたのは、ただあの時計がたいへん私の気に入った証拠と解していただきたい」と彼は付け加えた。
 その後で事務上の話に入りたかったのだが、何か調子がそぐわなかった。
 「いや、この話は笑ったままで打ち切りにした方がよいでしょう」と川路は言い足して、貴族らしく悠然と立ち上がった。』

こんな言葉を今の役人や政治家が言えるだろうか?と思います。
それは素晴らしい技術の産業であるかも知れないが、現代の日本人にとって、それが良いものであるのか?という見抜いた態度と先方に対して謙りながらも諦めてもらうという言い方。日本人らしくもあり、硬い意志と祖国への思いがあるように感じます。

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そうこうしているうちにプチャーチン一行は国際情勢の不安(イギリス軍が極東ロシア軍を攻撃してくるという情報を得た)により一事長崎より撤退をします。
しかし撤退した先の琉球でペリーが第二回の浦賀入港という情報を得てディアナ号という戦艦で函館に向かう事となります。
函館では用が足せないと解り、次は大阪湾へ向かいます。これは朝廷の鼻っ面に行けば話を早く進められるだろうという思惑だったようです。さすがに軍人・・。
ただ、それも上手くいかなく、つい先だって開港した下田に向かう事となりました。
下田はペリーにより半ば強引に開港した場所で長崎や函館より遥かに江戸に近く、そこで交渉をというのが日本側の指示だったわけです。
そして下田にプチャーチンの乗るディアナ号は入港し、さて日本側と再び交渉を始めようとしたその日の朝
マグニチュード8.4とも推測される安政の大地震が起こりました。
それは東海東南海地震であり先だっての東日本大震災と同じように大きな津波が日本列島を襲います。
震源は駿河湾、下田でも10mともいう津波が港を襲い街はほぼ壊滅。プチャーチンの乗るディアナ号も大きな被害に遭います。
その際にプチャーチンはディアナ号から日本人の被災者を助けたり、医者を出したりしています。
その行為や長崎での日本全権との交流もあり、ディアナ号の修復に日本側も協力するという体制ができあがります。
ディアナ号の修復をする場所はロシア側の意見を取り入れて戸田とされました。
江戸時代の幕府では戸田という場所がある事もしっかりと認識をされていなかったようなのですが、ロシア側の乗組員が現地を見て回った結果
戸田は天然の港で突き出た半島が見事に外海から遮断してくれる、そうすれば敵艦に見付かる事も無いとし、ここが適地となったようです。

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しかし、ディアナ号は戸田まで辿り着く事はできませんでした。
あと少しというところで敢え無く沈没。その際の荷物の積み出しやディアナ号の曳航などは日本人も大きく貢献をしたようです。
帰りの船が無くなってしまったプチャーチンは日本側に頼んで新しい船の造船をします。
まだ大型船を作った事の無かった日本にディアナ号に積んであった資料から作った設計図を見せながら
日本人の船大工や鍛冶士を呼んで作り上げていきます。
その際の様子を現したロシア人の話がまた面白いのです。
「彼等はゆっくり仕事をしたが、ロシア人の指示をきわめて正確に守って、すべてを丹念にこしらえあげた。」
日本人の仕事は「ゆっくり」しているのです。
そして出来上がった船にプチャーチンは「ヘダ号」と名付けました。
まだ本来は鎖国の政策が取られてたい日本ではあったのですが少しずつロシア人と現地の日本人との交流が生まれていったようです。
その様子がこのように描写されています。
「ロシア人は土地の者と極めて仲良く暮らし、至る所に彼らが出入している」
交流は祭の際の相撲にロシア人が飛び入りで参加したり、日本人の書とロシア人の絵画を同じ紙に描いたりと
とても友好的な交流があったようです。

この「ヘダ号」の造船の最中にもプチャーチンは日本側と日魯通好条約の交渉をしています。
そして、災い転じて福と成すように先に締結をした日米和親条約より少し進んだ条約を締結します。
それは開港の港をアメリカは函館、下田の2港に対して長崎を加えた3港に、欠乏品などの対価はアメリカは金銭だけロシアは加えて物品も、領事裁判権はアメリカの条約には無いがロシアとは平等の条約を結びました。
そして領土の境界線は択捉島とウルップ島の間に置く事。サハリンについては雑居地とし、国境を定めない事を決めました。
領土に関してはその後の日露戦争、大東亜戦争を経て敗戦、サンフランシスコ講和条約により北方四島とサハリンに対して、この領土を主張しないと決められ現在に至ります。

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プチャーチンはその後国内での大臣などを経てフランスで死去します。
後にプチャーチンの娘オーリガが戸田村を訪れました。オーリガは死去の際の遺言としてプチャーチン家の財産から800ルーブルを日本の貧しい人びとにと寄付します。内訳は日本国内の貧しい人びとに500ルーブル、日本赤十字に200ルーブル、戸田村に100ルーブルです。
どうやら、このエピソードだけでもプチャーチンは日本に対して本当に好印象を持って帰国したのだな。と解ります。

こうして江戸時代の日本人を外国人の目から見ていると
繰り返しになりますが、日本の事を話しているのだろうか?という気になってきます。
そして、外国人から見た、この時代の日本人らしく外交やその後の国づくりをしていたならば今とはずいぶん違う国なのだろうなと思います。
果たして明治という時代は何だったのか?と考えてしまいます。


追記
今回の写真は結婚式の写真では無いのですが
結婚式の撮影をするのに出張で伺った時、空いている時間に撮影した写真です。





by furusatodiscovery | 2015-10-30 21:45 | 静岡
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