縁のある地で挙げた結婚式の写真とその地の歴史を見ながら記事を書いてみたいと思っています。勝手な歴史考察を含めてなので間違いがあるかも知れないので、まるのまま信じないでね。本サイトはプロフィールページにリンクがあります。
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幕末の伊豆で起きたロシア人との交流は
伊豆の歴史は今回で二回目となります。
前回は伊豆半島が遠く1000キロの沖合にあった島から、ゆっくりと北上して列島に衝突し、それが半島になったという話でした。

今回はかなり新しい歴史について触れてみたいと思います。
江戸時代の末期に伊豆半島の下田は海外からやって来る船の玄関口となっていました。それは有名な話です。あの、ペリーも下田にやって来ています。

日本では鎖国という閉鎖的な言葉で、頭の固い幕府が海外の進んだ文明を取り入れようとせずに、いつまでもチャンバラをしていた、なんて印象が持たれているように思います。
ですが、海外から日本に訪れた人達の目線や表に出ている歴史上の人物では無い人達の目線に立って江戸時代、幕末などを見ていくと
果たして開国とは何だったのか?ともう一度考えてみたくなります。

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「逝きし世の面影」という本があります。この本は幕末の頃に日本を訪れた外国人が見た日本人を描いた本です。
その中で下田に立ち寄った人々が日本について持った感想が書かれています。

『十九世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点がどうであろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。時には辛辣に日本人を批判したオールコックさえ「日本人はいろいろな欠点を持っているとは言え、幸福できさくな、不満の無い国民であるように思われる」と書いている。ペリーは第二回遠征のさいに下田に立ち寄り「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。ペリーの四年後に下田に訪れたオズボーンは、街を壊滅させた大津波のあとにもかかわらず、再建された下田の住民の「誰もがいかなる人びとがそうありうるよりも、幸せで煩いから開放されているように見えた」』

また

『英国聖公会の香港主教ジョージ・スミスは1860年に来日した人で「一世紀前の日本のことを書いた著者の記述を読み、彼らの国民性への評価と、今日長崎の街でふつうに見受ける光景や住民の習慣・しきたりを較べてみると、この著者たちが観察の機会が限られていたため、住民の性格をよい方に誇張した画像を描き出したのか、それとも、今日の日本人がいくつかの重要な点で、百年あるいは二百年前に暮らしてた日本人から劣化してしまったのか、そのどちらかだという推論は避けがたい」と書いている点でもわかるように、幻想や読みこみなどには一切縁のない人物だったが、その彼ですら「西洋の本質的な自由なるものの恵みを享受せず、市民的宗教的自由の理論についてはほとんど知らぬとしても、日本人は毎日の生活が時の流れにのってなめらかに流れてゆくように何とか工夫をしているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない気楽さの潮に押し流されてゆくことに満足している」と認めざるをえなかった。』

今上げた部分でも下田では無いところもあるのですが
この本は本当に面白い本なので、ほんの一ページを開いただけで出てくる、外国人が見た日本人の感想を上げてみます。
・「不機嫌でむっつりした顔にはひとつとして」出会わなかった。
・「この民族は笑い上戸で心の底まで陽気である」
・「日本人ほどで愉快になりやすい人種はほとんどあるまい、良いにせよ悪いにせよ、どんな冗談でも笑いこける。そして子供のように笑い始めたとなると、理由も無く笑い続けるのである」
・「話し合う時には冗談と笑いが興を添える、日本人は生まれつきそういう気質があるのである」
こんな話がこの本の中からはたくさん出てきます。
日本という文字を外して読んだら今の日本人が、これは日本人を描写した言葉なのだと解るでしょうか?
初めてこの本を読んだ時、僕はとても驚きました。そしてそれがわずか150年前の事だと知ると、何やら悲しさすら浮かんできました。

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伊豆の幕末と言えば下田になるのですが、実は隠れた舞台(自分的に)に戸田があります。
戸田にはプチャーチンというロシアの特使が、やはり日本の開国を求めてやって来てました。
当時の日本は最後の極東の島国として欧米の進出が強くなって来ていました。
また、ユーラシア大陸を東から臨む島であり、時代はそれまでの帆船から蒸気船に変化していく頃で、時間の短縮と共に寄港地での燃料の補給も必要など、日本という島国だけの利権では無い国際的な勢力争いの舞台としても欧米諸国としては開国を望んでいたようです。
しかしながら、日本国の政府である幕府はなかなか開国には応じずに長崎だけを特別な玄関として置き、その他の開港はのらりくらりとかわしていたのです。
そこに強気で攻めるペリーが戦艦四隻で首都江戸の鼻っ面に直接やってきます。いわゆる「黒船来航」です。
挙げ句に空砲までぶっ放し、全てがアメリカの戦略ではあったのですが、その高圧的な態度に見事にかかった幕府は二度目のペリー来航時に日米和親条約を結ぶ事となります。
ただ、その空砲の発射も予め日本側へ通告があったために、当初は江戸市民は大騒ぎとなったものの空砲だと解ると、その音がする度に花火のように喜んだとも伝えられているようです。さすが江戸。。

ロシアはと言えば日本とは隣国という事もあり、ペリー来航の100年以上も前から日本人の漂流民による日本語学校の開設などを行い、日本との通商に関して興味を持っていたようですね。
ただ、現在のように事はそれほど素早く進む時代でも無く、実際にロシアが日本に初めて特使を送り通商条約を結ぼうとしたのは1805年という事です。しかし幕府は一年も彼らを待たせた挙げ句に開国はできないという返事を持たせて帰らせたという事で、少々怒りを買ったようです。
そして時代は西洋の世界的な進出、おとなり清国でのアヘン戦争など、日本でいう幕末の時代に移っていきロシアは日本との通商を結ぶためにプチャーチンの派遣となるわけです。
ロシアとしては、領土の確定と貿易、最恵国待遇、領事館の設置などが望みであったようです。
貿易はとても重要な要素だったようですがそれと共に西側イギリスの中国進出、東側から押し寄せてくるアメリカの存在も大きく意識していたようで、国際情勢のそれぞれの思惑の中で日本という国も知らぬ間にコマの一つとされていたのでしょうね。
当初プチャーチンもペリーと一緒に江戸湾に入る予定だったそうです。ただ、途中でロシア皇帝より通達を受けて、当時の日本では唯一の外国との玄関口、長崎に出向く事になります。ロシアの皇帝からは日本の国法に沿って交渉をするようにという事だったのですね。
そして長崎でプチャーチンは運命の人とでも言うのか日本の勘定奉行の一人で日本側全権の一人川路聖謨(かわじ としあきら)と出会うわけです。
長崎でのロシア人と日本人の交流は、お互いに探り合いをしながら少しずつ尊敬の念を抱いていったようです。
それは後にプチャーチンと同行したゴンチャローフという作家が書いた「日本渡航紀」や川路が残している文章からも伺い知る事ができます。
その内容はアッという間に友人関係になり、みたいな劇的なものでは無く、ロシア人からすれば、どこか上から見た態度でもあり、日本人からすれば、得体の知れぬ詐欺師でも見ているようなところもあって、実にリアルな話だなと思うわけです。
このプチャーチンの一行がやって来た時の様子はいろいろと書物などになっているようですが、その中で川路全権が言った言葉が目につきます。

『「外国から魚や、ガラスや、米などのような必需品を持ってきてもらうのは結構なことです。しかし昨日ちょうだいしたような時計を見ると手前どもは目もくら んでしまうので、あんなのを外国から持ってくるようになったら、日本人は何もかも渡して素っ裸になってしまうでしょう」
「しかし、ただいま申し上げたのは、ただあの時計がたいへん私の気に入った証拠と解していただきたい」と彼は付け加えた。
 その後で事務上の話に入りたかったのだが、何か調子がそぐわなかった。
 「いや、この話は笑ったままで打ち切りにした方がよいでしょう」と川路は言い足して、貴族らしく悠然と立ち上がった。』

こんな言葉を今の役人や政治家が言えるだろうか?と思います。
それは素晴らしい技術の産業であるかも知れないが、現代の日本人にとって、それが良いものであるのか?という見抜いた態度と先方に対して謙りながらも諦めてもらうという言い方。日本人らしくもあり、硬い意志と祖国への思いがあるように感じます。

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そうこうしているうちにプチャーチン一行は国際情勢の不安(イギリス軍が極東ロシア軍を攻撃してくるという情報を得た)により一事長崎より撤退をします。
しかし撤退した先の琉球でペリーが第二回の浦賀入港という情報を得てディアナ号という戦艦で函館に向かう事となります。
函館では用が足せないと解り、次は大阪湾へ向かいます。これは朝廷の鼻っ面に行けば話を早く進められるだろうという思惑だったようです。さすがに軍人・・。
ただ、それも上手くいかなく、つい先だって開港した下田に向かう事となりました。
下田はペリーにより半ば強引に開港した場所で長崎や函館より遥かに江戸に近く、そこで交渉をというのが日本側の指示だったわけです。
そして下田にプチャーチンの乗るディアナ号は入港し、さて日本側と再び交渉を始めようとしたその日の朝
マグニチュード8.4とも推測される安政の大地震が起こりました。
それは東海東南海地震であり先だっての東日本大震災と同じように大きな津波が日本列島を襲います。
震源は駿河湾、下田でも10mともいう津波が港を襲い街はほぼ壊滅。プチャーチンの乗るディアナ号も大きな被害に遭います。
その際にプチャーチンはディアナ号から日本人の被災者を助けたり、医者を出したりしています。
その行為や長崎での日本全権との交流もあり、ディアナ号の修復に日本側も協力するという体制ができあがります。
ディアナ号の修復をする場所はロシア側の意見を取り入れて戸田とされました。
江戸時代の幕府では戸田という場所がある事もしっかりと認識をされていなかったようなのですが、ロシア側の乗組員が現地を見て回った結果
戸田は天然の港で突き出た半島が見事に外海から遮断してくれる、そうすれば敵艦に見付かる事も無いとし、ここが適地となったようです。

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しかし、ディアナ号は戸田まで辿り着く事はできませんでした。
あと少しというところで敢え無く沈没。その際の荷物の積み出しやディアナ号の曳航などは日本人も大きく貢献をしたようです。
帰りの船が無くなってしまったプチャーチンは日本側に頼んで新しい船の造船をします。
まだ大型船を作った事の無かった日本にディアナ号に積んであった資料から作った設計図を見せながら
日本人の船大工や鍛冶士を呼んで作り上げていきます。
その際の様子を現したロシア人の話がまた面白いのです。
「彼等はゆっくり仕事をしたが、ロシア人の指示をきわめて正確に守って、すべてを丹念にこしらえあげた。」
日本人の仕事は「ゆっくり」しているのです。
そして出来上がった船にプチャーチンは「ヘダ号」と名付けました。
まだ本来は鎖国の政策が取られてたい日本ではあったのですが少しずつロシア人と現地の日本人との交流が生まれていったようです。
その様子がこのように描写されています。
「ロシア人は土地の者と極めて仲良く暮らし、至る所に彼らが出入している」
交流は祭の際の相撲にロシア人が飛び入りで参加したり、日本人の書とロシア人の絵画を同じ紙に描いたりと
とても友好的な交流があったようです。

この「ヘダ号」の造船の最中にもプチャーチンは日本側と日魯通好条約の交渉をしています。
そして、災い転じて福と成すように先に締結をした日米和親条約より少し進んだ条約を締結します。
それは開港の港をアメリカは函館、下田の2港に対して長崎を加えた3港に、欠乏品などの対価はアメリカは金銭だけロシアは加えて物品も、領事裁判権はアメリカの条約には無いがロシアとは平等の条約を結びました。
そして領土の境界線は択捉島とウルップ島の間に置く事。サハリンについては雑居地とし、国境を定めない事を決めました。
領土に関してはその後の日露戦争、大東亜戦争を経て敗戦、サンフランシスコ講和条約により北方四島とサハリンに対して、この領土を主張しないと決められ現在に至ります。

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プチャーチンはその後国内での大臣などを経てフランスで死去します。
後にプチャーチンの娘オーリガが戸田村を訪れました。オーリガは死去の際の遺言としてプチャーチン家の財産から800ルーブルを日本の貧しい人びとにと寄付します。内訳は日本国内の貧しい人びとに500ルーブル、日本赤十字に200ルーブル、戸田村に100ルーブルです。
どうやら、このエピソードだけでもプチャーチンは日本に対して本当に好印象を持って帰国したのだな。と解ります。

こうして江戸時代の日本人を外国人の目から見ていると
繰り返しになりますが、日本の事を話しているのだろうか?という気になってきます。
そして、外国人から見た、この時代の日本人らしく外交やその後の国づくりをしていたならば今とはずいぶん違う国なのだろうなと思います。
果たして明治という時代は何だったのか?と考えてしまいます。


追記
今回の写真は結婚式の写真では無いのですが
結婚式の撮影をするのに出張で伺った時、空いている時間に撮影した写真です。





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# by furusatodiscovery | 2015-10-30 21:45 | 静岡
赤坂という土地を見ていて江戸の末期を考えてしまった。
赤坂

現代の東京でこの街の印象は「高級○○」(笑
車を停めても何か食べても、とにかく高いという印象です。
さてこの赤坂氷川神社ですが、由来としては10世紀、11世紀頃から降雨を願う神様として祭事があったと言われているようです。
社殿は徳川の八代将軍、徳川吉宗が造営したという事です。
それから忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の夫人の瑤泉院の実家、浅野土佐守の下屋敷だったりしています。

この赤坂氷川神社を調べると今井城というお城の名前が出てきます。元はここはお城だったいう言い伝えがあるようです。主は木曾義仲の四天王の一人で今井兼平だったと言うのですが、色々と調べている方の話を読むと、かなり怪しい話だという事のようで伝説の扱いになっているみたいですね。
赤坂は、以前は人継村という場所だったようで、開拓は1567年、家康が江戸に入る前の事です。その頃は人家など無い山畑だったと言いますから、そこから考えると前述した今井城はやはり無さそうですね・・。
それにしても、昔の赤坂は人家の無い山畑だったと言われても現代の我々には想像できないですね。

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江戸って言うとどうしても江戸幕府で徳川家康なんですけど、当然その前から人が住んでいるわけです。
江戸と言う名前を名乗った最初の人は江戸太郎という12世紀の人だそうです。その江戸太郎という名前は江戸という名の地に住むようになったから改名して江戸太郎にしたという事なので、たぶん千年以上前から江戸という地名があったのですね。
ちなみに江戸の江は川とか入り江で、戸は入り口を現す言葉だそうなので「川の入り口」もしくは「入り江の入り口」という事なのだそうです。千年以上前の関東平野は今よりも遥かに湿潤な土地だったろうと推測できますし、家康の利根川東遷事業が始まるずっと以前の事ですから、まだまだ入り組んだ岬のような状態があったのでしょう。
水害などの苦労はずいぶんあったと思いますが、その分その土地特有の自然の恩恵はたくさん受けていたのだろうなと思います。江戸湾なんて良い漁場だったのだろうなぁと。
現在赤坂と言われている場所も縄文の時代は水に囲まれた半島のような場所です。赤坂氷川神社の辺りがちょうど半島になって、溜池などの辺りは完全に水の中ですね。少しずつ海が引いていったとは言え、千年前程度ならば、その名残りはまだまだ感じられた事でしょう。
今でも氷川神社の周辺を歩くとけっこう急な坂が多いので、その事を知るとなるほどな、と思えます。

江戸時代に入ると赤坂は人継村を一木と書くように変わったそうで、その頃もまだ赤坂では無いのですね。赤坂の文字が初めて地図に載るのは家康が江戸に入ってから半世紀以上が経過した1657年の地図だそうで、その頃になると赤坂には松平などの武家屋敷が出来ていてます。溜池は水瓶としても使われたらしく、大きな池のような感じですね。江戸末期の広重の絵にも溜池が出てきますが、当然今とはまるで違った景色で、水をいっぱい溜めた池があり山王台の日枝神社も森の中にあるようです。今は外堀通りがあってそこからエスカレーターですね。(苦笑

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天下泰平の江戸時代は江戸の街を世界でも有数な巨大都市にしていきます。
江戸末期に訪れた外国人が芝公園近くの愛宕山から江戸の街をパノラマのようにして写真を撮っていますが、(こちらに江戸のパノラマ写真があります)それはそれは凄い景色です。ただ、そうは言っても江戸時代の都市の広がりは現在のそれとは比べ物にならないくらいに小さいです。ざっくりとその広さを言えば江戸末期ですら山の手の都市部は明治通りの内側だけですね。それにある本を読んだところでは、実に緑と水の多い都市だと江戸を訪れた外国人が言っています。それは見事に都市と田園が入り交じったものだったと。
わずか150年前なのに写真を見ても、話を聞いても、まるで知らない国のようです。

そして、明治という時代に入ると、赤坂に二百年以上も建っていた大名屋敷や旗本屋敷は姿を消し、代わりに日本軍の施設が立ち並ぶようになります。
名前も江戸から東京へと変わります。これは東の京ですね、天皇が居る所を京とする。結局のところ「御一新」をして近代化を進めるためには天皇の居場所を移すしか無いと思ったようですね。面白いなと思うのは、やはり天皇を味方に付けるとでも言うのか、その力を必要としているみたいなところですね。すでに形だけの王様のようになっているはずであるのに、やはり天皇は重要だとしている分けです。

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東京奠都(とうきょうてんと)という、かなり近代日本の歴史の中でも重要な場面を見ていくと、不思議な事や面白い事が見えてきますね。
この一大事業は大久保利通が中心になってやるようなのですが、どうやら決定的な助言をした人が居て、それが前島密という人なのですね。
大久保利通への助言の中で彼はいくつから江戸に遷都する理由を述べているのですが、その中で、僕的に気になったものを上げみます。
一つ目は、江戸市民が今まで幕府のお膝元だったのに、いきなり都じゃ無くなると、江戸から人が離れてしまうというのです。
だけど、僕が想像するには「それは無いよね」という感じです。そりゃ旗本とかやってた人にとっては幕府が無くなると困る人も居たでしょうけれど、その他の人にとっては江戸の街が必要なのであって幕府が必要なのでは無いのだと思うのですよね。
幕府も江戸の文化が作られる過程に関わったりはすると思うのですが、ただ、僕が好きな江戸の文化は町人達の生き生きとした文化で、それは風俗とも言えるような世界、それが芸術的ですらあると言うように高められた。そして、たぶんそれを江戸っ子達も好きだったのだと思うし、ある種の誇りもあったのだろうなと思うのですよ。
だから幕府という何やら手の届かない世界の人達がそこに存在するという認識は当然あっても、それが生活の全てでは無いのだと思いますね。どこか大きな政治と生活が分離しているような感じがします。きっと、その感じって今の日本の人にも共通している感覚だと思うのですよね。
自分達市民が参加して幕府や政府などの政治を動かして日本を舵取りしている感覚は無いから、だから誰がやっても同じ事。そんな感覚で現代の日本も政治に対する無関心というのはあるのだと思うのだけれど、それは江戸時代なら尚更かな?と思うのです。
だから江戸の人達が大政奉還で幕府が消えて、その後どうなるだろう?と不安にはなったとしても、また都じゃなくなる事に、何だか景気の悪い話だねぇてな事もあるにしても、その後、平和な江戸が続けば、問題は全く無かったと思うんですけどね。
ただ、明治政府って何だかな?てな所が多々あるような気がしますから、統一政府として全国に与える影響から、たとえ首都が東京では無かったとしても江戸は江戸時代の活気を保てたかは解らないですけどね、怒濤の改革ですから。ただ、江戸が地方都市であるならば、今の東京のように昔を断ち切ったかのような街では無いと思えるのですが・・。

あと、もう一つ、前島密は蝦夷地開拓を言うのです。
要するに北海道の開拓ですね。これは必要な事だと。大まかな目的としては近代化の資源として木材や石炭などが必要だと。そしてロシアなどから日本を守るために未だに王化が進んでいない地を自分達の領土として確立し防衛に当たるという感じなのですね。
当時の北海道は松前藩があったものの北海道のほとんどはまだアイヌの人達の国と言っても良い状態です。
とは言ってもヤマトと敵対している分けでも無いのです。ただ幕府にはあまり関与されずに大自然の中で生きている人達が居るわけですね。
そこの開拓は必要だと言うわけです。もしかすると西洋で学んで来た植民学が影響していて、少しでも多くの領土を持つ事が重要だと信じていたのかな?とか想像はするのですが・・。
そうだとすると自分達が恐れた欧米列強の植民地政策に対して、忌み嫌う事はせずに学んだ(真似た)という事になるのでしょうか。
とにかく、この蝦夷地の開拓をするには江戸が良いと、大阪じゃ遠過ぎて目が届かんという分けですね。

まぁその他に江戸はすでに大都市ですし、当時の日本の都市としては大きな道もあったりで、都合が良いとか色々あるみたいですが
大久保利通としては、この前島密の助言を聞いて大阪遷都から東京遷都へ大きく変わったと言われています。
ただ、明治政府が前島密の案を採用した本音としては政府が資金難だった為に「江戸遷都は金がかからない」という事が大きかったという話もあるようです。

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僕は個人的には幕府が無くなったんなら都は京都に戻してもらって良かったかな、なんて思うのですが、結局は維新の志士達は、のんびり公卿の政治なんてつきあってられないと、まごまごしていると海外の力に日本が飲み込まれると、近代化(西洋化)しか無いと、それがこの国を守る事・・。夷狄からヤマトを守ること・・。都を江戸へ、東京遷都をと。

ただ、百五十年も経過した今だから、そんな事が言えるのかも知れませんよね。初めて見た蒸気機関や武器に驚かされて、隣の大陸ではアヘン戦争に破れた清国を見て、欧米の植民地政策が極東の島まで進んで来た状態で、特に米国は最後は軍事力を使ってでも、こじ開けるような雰囲気があったようにも感じますし、また西洋の人達は西洋の人達で自分達の文明を広げる事は良い事だと思っている節も感じられ、その勢いを、のらりくらりと時間をかけて、かわしていきながら、自分達の未来を探るような、そんな器量や戦術や先見性を持った人は維新の志士達や幕府や朝廷の中には居なかっただろうなぁと想像します。世界的な歴史が西洋文明の全盛期に進む、その時代ですから、仕方が無いと言えば仕方が無いのではありますが、もったいないなぁと思ったりもするのです。
こういう事って、もしかすると、いかに自分達が生きている場所や文化に大切さを感じているか?にもよるのかな?とふと思います。
この時代は重要な事は何か?という問いかけの答えは「国」を守る事しか無かったのでしょうね。

歴史のもしもではあるけれど、もしも、江戸幕府の終焉が本当の一般市民が望んだ国家体制の変化だったならば、江戸は江戸のまま、大きな下町、江戸湾の街だったのでは無いかなと、そして現在はどんな街になっていただろう。そう想像してしまいます。
ただ、世界的な歴史を見ると、市民が革命を起こして変化をした国で結果的に良い国になった国はあるのかと言えば・・また王様や政治家が作った国で結果的に良い国があるのかと言えば・・さてさて、どうしたものか?ですね。





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# by furusatodiscovery | 2015-09-29 20:05 | 東京
海の幸と航海に彩られた沖縄の歴史に思いを馳せて
沖縄

何度か訪れた事のある場所です。
当然なのですが気候風土が本土とは違うので、その建物の様子は違ってきます。
本土に直撃したらひとたまりも無いであろう大きな台風が毎年のようにやってくる沖縄ですから
それに対応した家が建っているのです。
なぜそこまで大きな台風が沖縄にやって来るかと言えば当然南の海の島だからです。
それは海の幸に豊富に恵まれた土地と言えるでしょう。

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沖縄の歴史を調べると、すぐに出てくるのが琉球王国についてです。
およそ600年程前に琉球王国は誕生したそうです。それ以前は三山時代と呼ばれ、北山、中山、南山の三つに沖縄本島は分かれ、それぞれに王様が居たそうで、その三つの国を統一させた王様が現れて琉球王国となったそうです。

その前となると、調べるのがなかなか難しいのですが、先史時代という区分がされていて
やはり三つに別れているようです。それは三山時代とは違って文化圏として区分しているようで
薩南諸島の北部文化圏、沖縄諸島と奄美諸島の中部文化圏、宮古・八重山諸島の南部文化圏となるそうです。
その区分けは土器の種類に依存しているみたいで、北部は本土(九州)の縄文土器に影響を受けていると、中部は北部の影響を受けつつ独自の発展をとげたそうで、そして南部は本土とは関係無く台湾やフィリピンなどの南方諸島の影響が深いということです。
面白いのはこの新石器とか旧石器とか言われる石器時代が沖縄は長いのです。沖縄の遺跡はとても古く3万2千年前の人の骨が見付かっています。そして先ほど書いた三つの文化圏はおよそ千年前まで続きます。なので始まりは本土と変わらぬ時期だと思うのですが、石器や土器そして当然貝を道具として使う時代が本土よりも千年以上長く続いたという事になるわけです。

この先史時代の沖縄の生活とはどんな生活だったのでしょう。
あまり詳しくは語られていないようなので、かなりの推測を交えて書いていくと、それは海の幸と海上交通の生活と言えるのでは無いかと思うのです。
海の幸とそれから内陸における山の幸、そして気候は常夏の島。食料に困る事は無さそうです。
そして海上交通なのですが「貝の道」というのがあったようです。
それは二千年前頃の事で本土では弥生時代と言われている時代の頃です。貝や貝製品が九州や近畿、日本海側、そして北海道までに渡っていたという事なのですね。
これは凄いですね。本土でも旧石器時代の頃に黒曜石を神津島から運んだという話があるようですし、沖縄は海に浮かぶ島ですから、それなりに船の技術は向上すると思うので、そんな海上交通があっても不思議では無いと思うのですが、やはり命がけの航海だったことは間違い無いだろうと思うと凄い事ですよね。それにしても、どんな船で大海原を渡ったのでしょうか?丸木舟というのは無理があると思います。東南アジアでは紀元前3000年頃にはアウトリガー付きカヌーの帆船があったとも言われているので、先ほど書いた沖縄の南部文化圏がフィリピンや南方諸島の影響を受けているという事ですから、この線から伝わって来ているのかな?と思ったりします。
そして、この海上交通はおよそ800年に渡って続けられたという事です、沖縄の人々が運ぶ品々はずいぶんと本土の人々に重用されたという事なのですね。

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このように単なる海の狩猟だけでは無くヤマトや大陸との交易を行っていたとすると、それは僕らが石器時代と聞いた時に思いだすイメージとは違うのでは無いか?と思わざるを得ません。
そして当時はまだ、王様を抱くような民族では無かったとすれば、社会の構成としては本土的に言うと縄文人という感じになるのかな?と思います。
この沖縄の人と縄文人についてなのですが、数年前に発表された研究結果に、DNAとして見ると琉球人とアイヌ人が本土人よりも縄文人により近いのだという事でした。
これは海で遮られている土地柄、この3千年くらいの間の人々の交配が本土のように渡来人と関係する事は多く無かったのでは無いか?という事です。
僕も、その説はとても腑に落ちます。朝鮮半島に最も近いところから渡来人が渡り、それが本土を北上するように渡っていった。九州より南へ行くには、大海原が存在し伝播し辛く、また本州は北に長く、陸奥は暫くの間はエミシの地としてヤマトと敵対する関係でもあった。なのでそれよりも北であり、津軽海峡を挟んだ蝦夷地には渡来人の伝播はやはり琉球と同じようにし辛かったのだろうなと。
それと、縄文時代の人口分布は圧倒的に東日本が多いと言われていて、そうだとすると渡来人にとっては、あまり人の居ない場所にやって来たことになり、これも渡来人の定住と先住民の交流、渡来文化の反映の進み方を早めるのにも都合が良かったとも言えるのでは無いか?と想像します。
文化的に見ても、それまで琉球、本土、蝦夷地とあまり変わらなかった文化が、本土は、特にこの2千年で急激に、それまでの縄文の生活から打って変わって文明的とでも言うのか政治が人々の生活を左右する社会へと変貌しいきます。
それに対して琉球や蝦夷地は渡来人の流入が少なかったために縄文の文化を残しながらゆっくりとした時代が流れため、石器時代と言われるような文化が長く残ったのでは無いかなと思います。
物理的な自然の隔たりが民族の社会を隔てていた。言い換えれば自然と人間が近しい存在だった時代と言えるのでしょうね。

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しかし、そんなゆっくりとした時代の流れを生きていた島々にも政治的な社会が関わるようになってきます。
それは、お隣の大陸で大勢力となった明の台頭です。
沖縄も15世紀の頃には琉球王国へと形は変えて東アジアの大勢力である明の冊封体制に加わっています。それは明に対して貢ぎ物を出す「朝貢」をして、ひとつの王国であると認めてもらうという事であるのです。
ただし、貢ぎ物をしていたと言っても、どうやらそれは、単なる配下に入るという事では無く、琉球王国はヤマトや東南アジアの貿易の中継基地として明に関わったようで、ヤマトや東南アジアの品々を明に渡し、そして明から多くの商品を仕入れて、それをまた日本や東南アジアに売りさばくという体制を作ったのです。
冊封体制という明中心の国際秩序、盟主と臣下の関係を築いたもののみに与えられる交易権を利用した形とも言えるのですね。
その頃の琉球王国は「琉球王国の黄金時代」とも言われるらしく、とてもうまく行ってたいのでしょう。
ま、上手い事やったと言う感じでしょうか?(笑

その後、九州の薩摩藩が豊臣秀吉の東アジア征服の野望に加担するようにと要求をしてきたのですね。
ただ琉球の民族は戦争の経験が無いので、変わりに兵糧米を出せと言われたわけです。それも相当の量の。(7,000人・10カ月分)
その頃ちょうど明にも貢ぎ物を出さねばならぬ時期だったようで、仕方無く半分の兵役を受けたという事です。
その後、秀吉が死に江戸幕府の時代に入ると大陸との関係を修復したい徳川家康は琉球を使う事を考えました。
しかし琉球としては明との関係を大事にして、それに応じませんでした。
すると薩摩藩の島津氏がこれ幸いと琉球王国を武力によって制圧したのです。これ幸いというのはちょうど薩摩藩はお金に困っていたのです。
それからは良いように薩摩藩は琉球を使う事になります。
琉球の人々は薩摩藩からの圧政の中で疲弊しいったのですが、それでも日本本土からの文化などを吸収しつつ独自の文化を作るようになりました。それが現代に伝わる琉球文化となっています。
ここで、僕が気にかかったのは「琉球の民族は戦争の経験が無いので」というところです。
三山時代という戦いの歴史があったようにも思うのですが、他国から見たら戦闘の経験の無い国なのですね。
それと、薩摩藩の島津氏が江戸幕府になってから琉球に攻めて来た時も3000人で攻めたらしいのですが、わずか10日で首里城を明け渡したそうです。その理由は「戦闘の経験もあまり無く、大した武器も持っていない」だそうです。
やはり、これは色々と考えさせられます。すでに江戸幕府を擁する日本では無く、その前のヤマト王権の時代の日本まで遡ると何やら複雑な想像をしてしまいます。

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その後、江戸時代も末期になると以前にも増して西洋からの来訪者が訪れるようになります。黒船の来航です。
ペリーは沖縄に立ち寄った際に色々と調べているようです。それは地理的に見た沖縄の重要度を感じているからです。
もし幕府が開国をしないならば沖縄だけでも取ってしまおうと思っていたようです。
その後、明治になり明治四年の廃藩置県によって所謂「琉球処分」が始まるのです。
これまた沖縄の人々にとっては酷い政治が始まります。
そうこうしているうちに日本は戦争に明け暮れる時代へと突入、とうとう日米開戦まで起こしてしまい、沖縄はまさに戦場と化し、今度は米国による支配が始まりました。日本は大東亜戦争において敗戦を喫し、連合国(米軍)の支配下に置かれますが、1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約の締結によって独立という形になります。しかしながら沖縄だけは米軍支配のまま、となったのです。
振り返ってみれば、ペリーがやって来た頃の米国の戦略が数十年経過して成就したと言えるのかも知れません。
その後、米国は沖縄に大きな基地をたくさん作りました。米国は20年もの間、沖縄を基地の島として扱っていきました。
その間、沖縄県民はたくさんの祖国復帰運動を繰り広げていきました。
その沖縄県民の思いは「核も無い基地も無い平和な島」としての返還でした。
しかしながら当時の佐藤栄作首相とニクソン米大統領の間で交わされた「沖縄返還協定」は沖縄県民の意志を反映せずに進み、1972年(昭和47年)に沖縄は日本に返還されました。
その後も沖縄は日米安全保障条約地位協定に乗っ取った米軍基地がそのままに残り、今では誰でも知っている新しい巨大基地、辺野古が作られようとしています。
辺野古はもちろん沖縄県民の民意では移設反対、全米軍基地の撤退なのですが、相変わらず両政府ともに聞く耳を持っているとは言えないようです。

こうして辺野古の問題を今僕たちは目の当たりにしているのですが
歴史とは過去だけでは無く今も歴史だと感じざる得ません。それは過去という綿々と続いている時間が今に繋がっているということです。
沖縄では現在「琉球独立」が真面目に語られるようになったと言われます。
歴史を見れば、ヤマトとの関わりで沖縄が良かった事などあったのか?と思ってしまえば、独立したいという思いは仕方が無いとも思えてしまいます。
ただ、僕としては政治的な意味は全く無く沖縄が独立すると遠くなるような気がして、なんとなく寂しいなという思いがあります。
でも、その寂しさとは虚しい「国」としてのあり方の問題なのだなぁと思うと、根本的な部分で何かが変わらないといけないと感じます。




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# by furusatodiscovery | 2015-09-10 22:44 | 沖縄
桃源郷かと見まごう場所で福島県の自宅結婚式
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福島県飯坂。
ちょうど桃の花が咲く頃に伺いました。
遠方の場合は前日着で伺います。前日に現地に到着した時には雨が振っていました。少しだけ靄のかかった山村の景色の中で桜よりも濃い色の、でもきついわけでも無い、奇麗な桃色の花の咲く木を見つけました。「あんなところで写真が撮れたら奇麗だろうな」そう思いながら車を進めました。新郎の実家に到着し「桃色の花」の話をすると、それは桃で(笑)新郎の実家は桃畑を営んでいる農家さんだったのです。
次の日の打ち合せをした後に、新郎にお父さんの桃畑を案内してもらいました。家を出て少し歩くと、大きな、なだらかな谷が広がります。その谷が一面の桃畑でした。見た瞬間に「桃源郷」という言葉が頭をよぎる美しい景色でした。

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ここで、桃なのですが、いつから桃は日本にあるかと言うと、その歴史はとても古いものです。
弥生時代の遺跡から桃の種子が見付かっています。古事記や日本書紀にも出てきます。桃は果物の中でもとても古く、日本人には馴染みの深い果物なのですね。
この飯坂ではいつから桃の栽培をしていたのかは僕には調べられなかったのですが近くの伊達の桃の歴史は少し垣間みる事ができました。
江戸時代の中期から後期にかけては桃や桜の開花時期が書かれていて、花を鑑賞する楽しみというのが主流としてあったようです。ただ実の中には、とても甘い実があった事から品種改良を重ねて今のように甘い桃ができたようです。
大昔から桃の実は食べられていは居たのですが、どうやら美味しい実は稀少だったのでしょうね。

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飯坂の歴史は、やはり縄文時代からあります。長い縄文時代の中でも温暖であった8000年前頃は列島の人口は東に集まっていたという説があるように、福島県でも当然のように人々が生活をしていました。
縄文の時代は大陸の文化が入る事により終わりを告げて行きます。現在の調査では縄文と弥生の最も大きな変化は稲作であると言われていて、それが時代を大まかに区分する一つの目安のように言われるのですが、実際には当然の事ながら列島の全土がある時期に一気に変化するわけでは無いので弥生時代と年代的には言っても場所によって、まだ縄文文化であったりするのだろうし稲作をしていても西と東では人々の生活は大きく違うだろうと予想します。ただ、場所によって「時代」の名前を変えると、ややこしいという事なのでしょうね。だから日本の歴史は列島の歴史としてしまうのでしょうが、それは少し乱暴な分け方だなと思います。こんなに小さな島国なのだけれど、大陸の文化の流入における劇的な変化が列島の隅々まで進むのは最初の流入から長い年月を経て行われていくので、当時の情勢を反映する言葉で違う名前にしたり、何も反映しない名前にしたりする方が時代を感じるには適当なのでは無いかな?と思ったりします。

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話は飯坂から少し広げて福島県の歴史に入ります。
福島県は陸奥の入り口という事もあり東北の中ではかなり早いうちに、大陸の文化の流入があったようですね。
それは、やはり大きな古墳が5世紀頃にはどうやらあったという事から解ります。古墳があるという事はその地域に有力者(権力者)が生まれているという事ですね。やはり定住し作物を作り大きな里を作るようになると、どうしても上下の関係はできてくるのでしょう。それに稲作は大陸からの輸入によるものなので、稲作と同時に大陸の文化も輸入された見るのが普通だと考えれば、お隣の国では当時の日本より遥かに政治的な戦いが繰り広げられていたわけで、その社会的な仕組みの導入はあったのだろうと考えられ、人口の拡大と同時に上下関係のシステムも導入されたと言えるのかも知れませんね。とにかく激動の時代の始まりと言うわけです。
古墳文化の最北端はどうやら宮城県の中央部辺りのようなので、ヤマト王権の力はかなり早いうちに陸奥へ伸ばされようとしていたみたいですね。
そして県北の現在の福島市や伊達市の辺りに信夫国が作られ、そこより以北の陸奥国(蝦夷の地)との境とされたと言われています。
ただ、5~7世紀あたりの大和朝廷は自分達の権力争いも忙しかったり、また蝦夷地に対する差別もあったようで、陸奥に対する力の入れ方は、まだまだ小さかったようです。
しかし、その後、かの有名な蝦夷(えみし)の英雄、阿弖流為と田村麻呂の戦いや安倍貞任、藤原経清と源義家との戦いなどを経て、徐々に列島を牛耳ろうとする勢力は朝廷のような公家から武家へと変化をして行き、陸奥にも平泉という大きな都が出来るものの、それは頼朝によって滅ぼされるのですね。
ただ、この長い間も、終始一貫として蝦夷、俘囚などと差別をしてきた事に変わりは無いようです。
逆にこれが一つの大きな自己を保つ意識となって長く陸奥の地に根付く「らしさ」になっていくような気がします。
それは現代では、ほぼ忘れ去られてしまったかのような「国」とは何であるのかを考えるきっかけになるものを東北の歴史は与えてくれるように感じます。
その思いは遠く縄文の民に通じる意識であって、「国」という単位とは違う世界で生きている事を考えさせてくれます。

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福島から北の東北という地について書こうとすると、どうしても筆が止まります。
その理由は僕らが学校で習った歴史とは違う歴史が、わりと近い時代で見えてくる気がするからです。
日本の歴史の教科書は常に古事記や日本書紀からが史実のようであり、それ以前の歴史は発掘、要するに土の中から出て来た遺跡になってしまうと感じるからです。
その土の中の歴史という印象は我々の近隣の祖先(2千年程度前の人達)はまるで恐竜と共に生活でもしていたかのように想像させてしまっているような気がしてなりません。
しかし東北の陸奥の歴史に触れて行くと、実は史実とされている歴史の時代にも、史実の前とされている文化で生きている人達が居たのだという事が見えて来て、土の中からしか見えなかったと感じていた事が、実は最近まで、それがあったのだと解ります。
明治まで東北の奥地には蝦夷の民として生きていた村が存在していたのです。

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現代の時代とは明治維新以降、積極的に導入してきた「欧米」の文化が列島を席巻している時代だと言えます。それはとても大きな変化でした。
しかし、この列島の大きな変化は実は二回目で最初の大きな変化は2千年程前の中央集権主義、律令国家だったと言えると思います。
そして、その二つは似ているのです。
そして全く似ていない文化がその前にあったという事実を、単なる原始人の生き方として見るのは、やはりもったいないと思います。
なぜなら、1万年以上の間、個人の憎しみは存在していても部族間闘争が無かったと思える文化なのですから。(現在に至までの発掘調査では縄文時代の部族間闘争の跡は見付かっていない。)

その智慧が東北の歴史に存在するのでは無いか?そう思えてなりません。








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# by furusatodiscovery | 2015-08-20 13:48 | 福島
江ノ島は陸から離れたから良かったのでは無いかと・・。
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江ノ島
江ノ島と言えば今やマリンレジャーで有名な場所ですね。
湘南海岸の海岸線には若者文化とでも言うのか、たくさんのお洒落な店が立ち並び、海を背にして見ると、そこが海岸だとは思えない程の賑わいを見せています。
僕の知る限りではサザンオールスターズが出て来て以来この地が人気のスポットになったように思います。
その少し前から日本でもサーフィンをする若者が現れてきましたが、それでも、まだそれほどの賑わいとは言えなかったと思います。
それよりも少し前は静かな海辺の町で、干物の匂いがあるようなそんな風情だったように記憶しています。

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そんな江ノ島は歴史としては湘南海岸より遥かに古いですね。
というのは湘南海岸は縄文海進の時は海の底だったのです。
藤沢から鎌倉に向かうと山があります。その山がちょうど海岸線になるように海は来ていました。
なので今の海岸線に近い地形は鎌倉側と三浦半島という感じでしょうか?なので今の藤沢、茅ヶ崎、平塚、小田原の低地はほぼ海ですね藤沢や茅ヶ崎、平塚辺りなどだとけっこう海が現在の陸地深くに入って来ています。

でも、江ノ島は海の底に沈むような低さでは無かったのです、それどころか人の暮らしすらあったのですね。
というのは近年になって縄文の住居跡が見付かったのです。時代はおよそ9千年前の縄文早期のものだそうです。
鎌倉から半島のように突き出た突端の先の島に家を作って住んでいたわけです。
ただ、もしかすると縄文海進は6千年前がピークと言われているので、人が住んでいた9千年前は島では無かったのかも知れませんね。
半島から離れて行くようになってその場所には住まなくなったのかも?と思ったりします。
それにしても9千年前の、今とはまるで違う景色であろう相模湾にポツリと突き出た場所で住むっていうのは、どんな感じだったのでしょう?
周囲を海に囲まれた小さな島で生きているというのは不思議な感じでしょうね。
なんでそこを選んだのでしょう?魚でしょうか?それにしても小さいですよね。江ノ島。きっと神様を祀ったりしていたのでしょうね。

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江ノ島は歴史という点ではとても、たくさんの事が起こっています。
江ノ島にある江島神社は6世紀に地震が10日間も続いて天女が十五童子を従えて現れ、江ノ島を創ったと・・。それでその時の天皇(欽明天皇)の命令で洞窟に神様を祀ったのが江島神社の始まりという事になっているそうです。です。
で、その後も高名なお坊さん達がたくさんやって来て、その洞窟で修行をなさったそうです。その中には弘法大師や慈覚大師も入っています。言い伝えです・・。

で、時はずっと飛んで源頼朝がここで祈願をしたり鳥居を奉納したりします。この辺りからは史実です。
頼朝と言えば奥さんは北条政子なので北条の人達もたくさん来ます。
17世紀に入ると徳川もです。家康にはじまり光圀もきます。綱吉は中津宮を権現造りに社伝を再建しています。
やっぱり海に突き出ている島という事なのでしょうか?
凄いものですね。
江戸時代は天下泰平の時代でもあって、弁財天信仰が流行して江戸町民達も手軽な観光地としてたくさん来たようですね。
この当時から観光地としての何かを持っていたのでしょうか?

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ただ、明治になると外国の人がやってきて海洋生物の研究所を作ったり、江ノ島の頂上部を買い取って別荘を建てたり、なぜか学校を作って分校にしたり、北岸を埋め立てたり、桟橋を作ったり、それまでとは違う形になっていったようです。

そして、戦後昭和がやってくると、観光地として、どんどん進んで行きます。
一時期は静かな観光地ではあったような気がしますが、今では若者が定住し、とても賑やかな場所となったという事です・・。
なんか凄いですね。

近来そんな過激な変貌を遂げた場所ではありますが
何となく、感じるのは、やはり海に突き出た不思議な島は、何だか見ていて面白いのですよね。
近くに行って見ていると、あそこ行ってみようよって気にさせる、不思議があるような気がします。








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# by furusatodiscovery | 2015-06-21 17:49 | 神奈川